声優の起用の話

毎度のことですが、完全に妄想です。根拠ありません。
きっかけは大分前のものだがこれ。おそらく声優の業界の関係者が業界から足を洗うにあたってあとは野となれ山となれという感じで妄想の名のもとにいろいろ語っているというもの。もちろん本当に妄想の可能性もある。確かこの時期声優のプロダクションかなんかの社長だかが逮捕されたんだっけか? まあそのあたりのことはよく知らない。それはともかく、リンク先での話題はどの声優が枕営業をしているかという話だ。結論としてはほとんどみんなしている、意外とエロゲ上がりの人はしてなかったりする、男性の声優も場合によってはターゲットになっていたりする、などなど。まあそこで語っている本人がいっているように、すべて信じるに値しないことかもしれない。まあそれはそのとおりなのだが、気になったのは枕営業が可能になる条件は何かということだ。端的にいうと、仕事を恒常的に供給することのできるリソースを一部の人間が握っているということだ。素人考えだと二通りの可能性があるのかなと思う。第一に所属するプロダクションが大きい場合、問題になるのはそのリソースを内部でどう配分するかということになるのかと思う。そうすると枕営業の対象はプロダクションのお偉いさんとかになるのかと。それに対して、プロダクションの大小にかかわらず、(おそらくマネージャーと組んで)個人プレーが可能な場合、個々の作品において人事権を握っている人(プロデューサーとか監督とか音響監督とかになるのかな?)に個別にアタックすることができるかと思う。前者よりも後者の方が声優自身が主体的に振る舞えるのだろうか、よくわからんが。

多分、仕事を供給するためのリソースを確保することは重要だと思う。確か永井一郎だったと思うが、声優の待遇が非常に悪かったということをかつて訴えていたと思う。これまた素人考えでいうと、声優の世界では俳優のそれと違って長いこと「この人でなければいけない」といった、なんというか、タレント性といえばいいのだろうか、そういうものを持った人が非常に限られていたのではないだろうか。もちろんいないわけではないだろう。そういう人は問題なかったかもしれない。しかしそうでない人、そして将来そういうものを獲得する見込みがある人がいるとき、その人に供給する仕事がないとなると、それは業界として先細りになってしまうだろう。その意味ではあらかじめリソースを確保する必要は絶対にある。仕組みとしてはそれは談合といってもいいかもしれない。まして声優の業界(そういうものがいつから生まれたか知らないが)は異業種(俳優)に常に脅かされてきただろう。そういった異業種から守るため、あるいは若手の育成のため、こういった談合的な仕事の再配分は有効に機能した部分もあっただろう。しかし多くの談合がそうであるように、リソースの集中はすべからく権力の集中を生むから、そのことによってパワハラ的な問題も生むだろう。枕営業というのはその現れの一つなのかもしれない。

しかし僕が最もいいたいのは(もちろん妄想に基づいてだが)そういうことではなくて、こういったことは声優の活動を含めた音響制作というアニメ制作の一部のみならず、その全体に影響を及ぼすのではないかということだ。まあ芸能界でいえばジャニーズみたいなものか。監督をはじめ制作側と声優のプロダクション側で意見が対立して後者が押し切るといったケースもあるかもしれない。わからんが「そんなこというんだったらうちの声優みんな引き上げるよ」とかいわれたらアニメ制作自体が立ち行かなくなる。なんか根拠なくかいてきてそんなことあるんかいなとか思ってきたが、まあ妄想なのでよい。でもまあいえるだろうことは、アニメーション制作側と声優のプロダクション側で利害関係が一致しないことはあり得るだろうということだ。で、こう考えて初めてジブリ映画に素人のようなタレントがしばしば起用されることの説明が出来るのではないか。もちろん宮崎駿とかの好みの問題もあるだろう。しかし同時に、声優プロダクションの意向をあまり反映しなくてすむ制作体制をつくることが作品全体の制作に資すると考えるものがいたとしてもおかしくないのではないだろうか。まあでもジャニーズのタレントを使う方がよっぽど面倒くさい気もするが。そこらへんは妄想ということで。

で、このことはシンプソン問題でもいえるような気がする。僕がこの問題で得た知識は宇多丸のラジオからだけだが、そこで語られたことのほとんどが起用されたタレントがだめだということだったと思う。しかしそういうことを訴えるよりも、タレントを起用することのメリット、従来の声優を起用することのデメリットを考えた方がいいのではないか。この問題の前後に山寺宏一がブログかなんかでコメントをかいて、ちょっと話題になり、それについてちょっとエントリーもかいたが、そこでもかいたように、この問題は作品を制作するにあたっての倫理の問題とかそういうことではなくて、純粋に労働の問題だ。自分たちが苦労して獲得してきた労働のリソースを漁父の利のように奪われることはごめんだ、といった声優たちの態度表明だ。しかしそうして獲得されたリソースを独占することによって上記のような枕営業、まあ僕は枕営業がそんなに悪いことだとは思わないが、まあ枕営業という慣習があるなら多分それにまつわるパワハラセクハラ的なことは起こっているだろう。だとしたらそれは問題だろうし、こういう慣習によって割を食っている人もいるだろう。それはともかく、シンプソン問題のようなことを本当に解決しようとするならば、こういったリソースを市場に解放するしかないと思う。まあそんなことは不可能だろうが。そもそも芸能と市場性がどれだけなじむのかがよくわからん。

なんか自分で何かいているかわからなくなってきたのでもうやめる。

作画崩壊とか

最近『サムライ7』をみた。でちょっと思ったことがあるのだが、『サムライ7』の話ではなく、もうちょっと一般的な話。気になったのは第07話。まあなんというか、『創聖のアクエリオン』の有名な第19話のようなものだ。つまり他の放送回と作画が異なり、場合によっては「作画崩壊」と見なされているということだ。まあそれが作画崩壊かどうかを判断する必要はあまりないように思えるが、僕が気になったのは作画というよりもむしろキャラの動きだ。『サムライ7』第07話も『創聖のアクエリオン』第19話も、なんというか説明が難しいのだが、ある点から別の点に移動するのに、直線的に移動するのではなくて、一本の糸をその両点に結びつけてその糸の線にしたがって移動するといった感じなんだが、伝わるのだろうか…。AA的に説明すると、「人人人人」こういう動き。だめだ全然説明できん…orz。まあそれはともかく『サムライ7』では遊郭で踊りを披露するシーンがあるのだが、踊りとかの表現にはいいのかなあと思った。あと酔っぱらったりしてふらふら歩くときとか。
作画崩壊っていう現象は何かと考えるに、たぶんシリーズ全体を通して確認できる「平均的な」キャラと比べての造形のズレなんだと思う。そしておそらくその「平均」はオープニングやエンディングに登場するキャラが示してくれているのだと思う。上記二つの放送回も、またむしろ別の意味で有名な『天元突破グレンラガン』第04回の小林治回も、出来云々以前にオープニングと本編の違いが結構インパクトを与えたのではないだろうか。もちろんこのことはクオリティの低下による作画崩壊がないということではない。僕自身はよくわからないのでクオリティ云々いう資格はないが、少なくとも例えばキャベツとかでスタッフ側が確か公式に謝罪したんじゃなかったっけ? そういう事態がある以上、作画崩壊を単に印象に違いだと断ずるのはやっぱりちょっと違うような気もする。また伝説の『ガンドレス』の例もあるし、TVシリーズだけに作画崩壊があるというわけでもないだろう(まあ『ガンドレス』は作画崩壊だけではなく色彩崩壊(というのか?)とかいろいろあったが)。
でいいたいことは作画崩壊作画崩壊とわめくのはしょうもない、ということではなくて(まあそう思わないこともないが)見てる側とつくってる側で「作品」の単位が違うのかなということだ。僕自身もシリーズ全体を作品の単位として見てしまう傾向があるが、多分それは見る側の平均的な見方ではないだろうか。それに対していわゆる「作画オタ」なる人種は多分ちょっと違う見方をしていて、「ここからここまでが誰々の仕事」といった感じで見ているのではないだろうか。でつくる側がどうかというと、まあ僕の知識は『アニメーション制作進行くろみちゃん』と『妄想代理人』のアニメ制作回で得たものぐらいしかないのだが、どちらにも共通しているのは、一回(25分ぐらい?)のアニメをつくるのにいっぱいいっぱいで、現場ではシリーズ全体を見通す余裕はなさそうだということだ。また放送回によってスタッフが全く違うことがあり、当然ある回のスタッフがやりたいこととシリーズ構成の人や監督がねらっているものとの違いがでてくることもあるだろう。おそらく『創聖のアクエリオン』第19話などはむしろその違いを逆にねらってうつのみや理を起用したのだろう。

作画崩壊、あるいはそれを巡る言説については多分二つのことがいえると思う。まず第一に多くの作画崩壊に関する議論は印象論によっているなということ。このことはもう一つのことが原因となっていると思う。つまり他のジャンルと比べても「作品」および「作者」の輪郭があまりはっきりしていないことによって、異なる作品の輪郭を想定している者との間で作画崩壊と見えたりそう見えなかったりすることがあるということ。でこのことは本質的には解決しない。つまりその輪郭を確定することは原理的には不可能だ。そのことは一見作者なるものの輪郭がもともはっきりしていると思われる文学において証明されたように思われる。例えばシュルレアリストたちの手によるいくつかの作品。あるいはベケットとの有名なエピソードをもつジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』。違う観点からもいえる。マラルメは『イジチュール(『イギトゥル』っていうのか?)』などでいかに偶然に抗うことが困難かを示した。偶然はさいころを振る者とでた目との間に介入する。つまり、わたしとわたしが書いたものとの間に介入するといえるのだ。有り体に言えば思考とその表現は本質的に必然的な関係を結ばない。表現は思考の同一性を保証しない。作者の同一性も保証しない。その意味でいうと何が作画崩壊で何がそうでないかを確定する基準は本質的には存在しない。

まあかなり詮無い方向へ脱線してしまったが、いいたかったことは作品の輪郭はとりわけアニメではかなり相対的なものであって、映画とかマンガとかと比べても同意が得られていないのではないかということだ。各放送回の演出家や絵コンテ担当者にとっては、シリーズ全体のこととか考えていたら自分のやりたいことが制限されてしまうと考えるかもしれないし、またシリーズ全体を考えるべき監督にとってみたら、そうやって好き勝手やってもらった方がかえっていいと考えることもあるだろう。まあそのあたりぶっちゃけていえば人それぞれだろうが、例えば押井守あたりがラジオでしゃべっていた気がするが、高橋良輔なんかはむしろ文芸的な方面に興味があって、各回の映像面においてはかなり放任らしい(そういえば『アニメ夜話』の『装甲騎兵ボトムズ』の回でスタッフの人が各回のキャラデザの統一なんて気にしていなかったとかいっていた。まあ当時はみなそうだったのかもしれないが)。したがって厳密にいうと、アニメ作品における共通にあり得る現象としての作画崩壊について語るならば、まずアニメの単位(何を一作品とするか)を確定しなければならないが、そのためにはおそらくジャーナリスティックな知識が必要だし、それは作品ごと、制作者ごとで異なるだろう。例えばあるアニメの第03回と比べて第04回がひどい作画崩壊に陥っていると見ている側が判断したとしても、もしかしたらつくる側は「いやそれは違う作品だし」とか思っている可能性だってなくはない。そして他方で個々の放送回に自由度をもたせるよりもシリーズ全体の構成を重視する制作会社もでてくるだろう。それが多分京都アニメーションだったりシャフトだったりするのではないだろうか。嫌らしい言い方をすれば、これらの制作会社が評価されているのは、これらの制作会社が評価されやすいからだ。そしてこの評価されやすさというものは制作する側が視聴する側とアニメの単位というか輪郭を共有している、あるいは共有しようとしているということにあるのではないか。もちろん作画崩壊ってのは作り手の倫理の問題ともかかわってくるから、キャベツみたいにやっちゃったなと思った作り手は自らそのことを表明して謝罪することはあるだろう。しかしいうまでもなく作品そのものの問題と作り手の倫理の問題は全く別物だ。つまり倫理の問題とは別に作品の質として作画崩壊なる現象をとらえるとき、実は印象として語るのは非常に困難で、それどころかそれを語る視聴者の多くが客観化されうる質として語っているという点で誤謬に陥っている気がする。まあ2chやニコニコで語られているのはネタなのかもしれないが。

今更ながら『ハンター×ハンター』連載再開を記念して

ハンター×ハンター』が連載再開だそうで。
かなり乗り遅れた感があるが、まあよい。前回は十回ぐらいの連載だったが、今度はどのくらい連載するのだろうか。今度は書きだめしているというより、普通の意味での連載ということになるのだろうか。いずれにしても富樫にはがんばってもらいたい。
僕も全国にゴマンといるファンのうちの一人だが、何が好きなのかということについてちょっと考える。このことについては別の場所でちょっと書いたことがあって、それと重なることが多いが、まあよい。
まず第一にジャンプの戦闘マンガの伝統というのがあると思う。ちなみに僕がジャンプを読み出したのは、そんなに記憶が定かではないが、車田正美でいうと『男坂』が連載していたことではないだろうか。もしこれが正しいとすると、読み始めた時期がかなり特定できる。それぐらい連載期間が短かったと記憶している。あとなんだろうな、『ガクエン情報部H.I.P』とかあったと思う。両方とも内容は全くおぼえていない。ちなみに『風魔の小次郎』は単行本で死ぬほど読んで聖剣とかも実際につくろうとしたが。まあそれはともかく、ジャンプの戦闘マンガというと、努力、友情、勇気とか能力インフレとかいうことがよくいわれるが、最も重要なのは能力の可視性ではないか、ということだった。つまり戦わなくてもこいつがどれだけ強いか、ということがわかると。「どれだけ」強いか、ということが重要だ。つまり能力の可視性ということに付随して、能力を測る基準をみなが共有しているということだ。それが『ドラゴンボール』であればスカウターによって検出される戦闘力だし、『キン肉マン』であれば超人強度だ。たしか『ワンピース』でもそういうのがちょっとだけでてきたと思う。
そういう流れにある意味で異議を唱えたのが『ジョジョの奇妙な冒険』だとおもう。これが最初かどうかわからないが、この影響力は大きかったろう。何をしたか。まず能力(の源)を外在化した。スタンドだ。これはまず能力インフレ対策といえる。なぜならスタンドがなにしたって本人は別に強くなることはないからだ。まあ本人も危険はおかしているだろうし常識的な範囲で成長はするだろうが。そして何よりも共通の尺度としての「強さ」というものはあまり意味をなさないということが重要だ。おそらく重要なのは強さよりも利便性だ。各スタンドは得手不得手があり、スタンドの持ち主はその得手不得手をふまえた上で戦略を練る必要がでてくる。したがってスタンド使い同士で戦闘する場合、スタンドと戦闘の場との相性を考える必要がでてくる。あえてここで強さという言葉を使うなら、それはそのスタンドと戦闘の場の特殊性との関数として事後的にでてくるものだろう。この作品があらかじめスタンドというものを想定して連載開始されたかはわからないが(多分それに関するインタビューとかあるのだろうし、確か著者のあとがきだか前書きだかでかなり先まで構想を固めて連載を始めたといっていたような気がしたが)、いずれにしても最初は『北斗の拳』の亜流のような感じだったが(その印象のおかげで連載当時はチェックしていなかった)、スタンドのおかげでそれまでのジャンプ的戦闘マンガとははっきりと一線を画す作品になったと思う。
この観点からすると、『ハンター×ハンター』は『ジョジョ』の提示した問題を引き継いだといえると思う。この作品にはスタンドはない。かわりにあるのは念だ。両者の大きな違いは、前者においては新しいスタンドにその都度新しいアイディアを詰め込んでいくという形でキャラ作りをしていったと思うが、後者においては念というのは各個人に備わっているという以前にまず一つのシステムだ。したがって念を操るものは念について学ばなければならない。そして学ぶ過程で念で何ができて何ができないかということを知る。したがって登場人物や読者にとって念のシステムというものは帰納的に明らかになる。『DEATH NOTE』についても同様のことがいえる。変なノートがある。使い方は最小限しかわからない。したがっていろいろ実験してみなければならない。本当は近くにいるやつがほとんど知っているのだがおもしろがって教えてくれない。そして実験をしながらバトルに相当するものを行ってゆく。
二つの作品を読んだ印象としては、『ジョジョ』ではいかに興味深いスタンドを見せるか、ということが問題であったのに対し、『ハンター×ハンター』では念そのものがどのように利用されるか、そしてそれが社会やあるゲームの中でどのように位置づけられているか、ということが問題になっていたような気がする。念とは個人の能力といったものに限定されず、むしろ社会の共通の富のようなものだ。そもそもハンターという職業自体がその富を社会に還元する職業ということができる。
で、このように念というものは個人の能力というよりもなんというか研究対象のようなものなわけだが、その事実のために念とは客観化可能な何ものかとなる。つまりそれは測ることができる。それが意味することは念能力の強さというものは客観的に測定可能だということだ。そのため上で示したジャンプ的戦闘マンガの特徴である能力の可視性というものはこの作品では引き継がれているのだ。これが『ジョジョ』との大きな違いだといえると思う。いってみれば、能力の可視性の結果としての能力インフレをいかに回避するかという問題を引き受けた『ジョジョ』を引き継いだ『ハンター×ハンター』はぐるっと回って能力インフレの問題に再びぶつかったかのようだ。

多分僕はこういった『ハンター×ハンター』的な思考をアニメとかにも求めているのだと思う。念にあたるものがあるアニメにとってはロボットだったりロボットを可能にする謎の原理だったりするわけだ。で『ハンター×ハンター』的な思考とは何かというと、その念が作品内で表現される世界において整合性のある形で位置づけていこうという思考だ。ボマーが手から放つ爆弾がなぜ自分の手を爆発させないか、という問いはその観点からすると非常に重要になる。結局こういう問いに答えることによってゴンに勝機が見いだされるわけだが、それだけではなく、念という能力が無限の可能性をもつものではないということを示している。超自然的な力ではない、ということもできるかもしれない。その場合の自然的、とは念の能力を含めて自然というものがこの作品では構成されているということだ。ちなみに現時点での僕の疑問はクラピカのジャッジメントチェーンについてだ。クロロはこの鎖で心臓を縛られるが、彼が念能力を発動させるか幻影旅団の団員と接触すると鎖が発動して心臓をつぶされてしまう。旅団編の最後でクロロは元旅団員のヒソカ接触する。「元」旅団員なので接触しても大丈夫、ということだが、これはどういうことなのか。二つの可能性がある。この人は旅団員ではないとクロロ自身が認識した時点でセーフなのか、あるいは実際に旅団でなければ大丈夫なのか。この二つの違いは多分大きい。というのは、前者であれば旅団員は「旅団を脱退した」とクロロに告げれば事実上誰でも接触可能だし、確か団長自身の承認がなくても入団が可能だったはずなので、クロロを殺そうと思ったものが他の現役旅団を倒し旅団員となってクロロがその者の入団を知らないうちに接触すれば難なく殺せるからだ。まあクロロの行く末が今後描かれるかわからないが、もし描かれるならこの辺りも問題になるかもしれない。

こういった思考を僕はアニメ作品にも望んでいるわけだが、やっぱりアニメだと見た目の鮮やかさとか動きとかが重視されるだろうから、そのあたりは裏設定としてはあるかもしれないがはっきりとは示されないかもしれない。結構前だが見た『Witch Hunter Robin』もそんな感じだったような気がする。最初の方はウィッチの能力が一般社会には隠され(あるいは公然の秘密となっ)ていて、その上で主人公たちが秘密裏に操作するわけだが、最後の方になるとそういうことはおかまいなしで派手に戦うようになる。こういうのは僕にとっては作品内で描かれる社会におけるウィッチあるいはその能力の位置づけが厳密でないように見えてしまうのだ。まあ話としては結構面白かったのだが。その点ある種のロボットアニメはそういう考察が展開されることがあるので見てしまう。

結論として諸星大二郎

「そもそもアニメ薦めてる時点で……」とか云わないで経由で、
女性に勧めても引かれないアニメ

まあ別に実際にそういう機会はないのと、周りにそういう人もいないのでお遊び感覚で。
カウボーイビバップ』とかをあげるのはチキンだと。その基準は重要だ。こういうのがないと遊びとしての面白みがなくなる。ただあまりその基準を理解できていないので、ちょっと僕には難しい課題かなと。で、こういうことは多分消去法でいくのがいいのかなと思う。やっぱり萌え系はだめなのだろう。この場合の「萌え」とはここで散々いってきたことではなくて、むしろもっと緩く、キャラデザで判断するのがいいと思う。そもそも女性に萌えとは何ぞやということを延々と話すなんてことになると薦める前に引かれてしまう。で、僕が勝手に萌え系だなと思うのは目の大きさだ。でSF、ロボ系もヤバいらしい。それらを除外した上でなおかつ「日和った」(ってどういう意味だ)と思われないもの(その意味で少女マンガ原作はアウトなのだろう)とはどんなものか。

とりあえず暗いものの方がいいのかなあとか何となく思う。その意味でいうと『TEXHNOLYZE』『Ergo Proxy』あたり? ただ後者については現代思想とかに興味がある人にはネーミングがむかつくと思うが。あと最近見た『Witch Hunter Robin』とかもいいのではないか。あとリンク先の方もちょっとだけ触れているけど、安倍吉俊絡みのものもかなりはいりやすいかなと。あと見たことないけど『巷説百物語』なんていいんじゃないだろうか。あとリンク先の方は最後に『Noir』をあげてらしたが(これはオチなのだろうか)、真下耕一ものでいったら『吟遊黙示録マイネリーベ』とかが一番薦めやすいのかなとか思う。まあ彼の監督作品で見たのはこの作品と『エル・カザド』、あと『無責任艦長タイラー』ぐらいだが。ちなみに『タイラー』はすばらしかった。後半ちょっとかったるくなったが。だが『マイネリーベ』はちょっと日和った感じになるのかな。

ただ、僕の知り合いの女性の中には、基本的にアニメには興味ないけど、『エヴァ』だけは見た、という人が何人かいる。だとすると、薦めるポイントというのは、「これ面白いよ」というよりも、「これ人気あるよ」ってことになるのかなと思う。で、内容的にちょっと厳しい感じでも、人気があればとりあえず見るものだと。そのあたり藤子F不二雄の短編の「おやじロック」を思い出す。その意味では上にあげた作品たちはそんなにメジャーじゃないからだめなのだろうか。だったら開き直ってマイナーなものをあげてみよう。

というわけで結論としては、諸星大二郎原作の『暗黒神話』を一押ししておく。これならどう考えても「日和った」とは見なされないだろう。ちなみに出来もかなり良かったと記憶している。まあもしできがよくなくても、諸星大二郎をアニメ化しようという企画自体に敬意を表したいので、許せるかなと思っていたが意外に遜色なくて驚いた。諸星作品で僕が一番好きなのは『生物都市』なので、ぜひアニメ化してほしい。何となく思うのは、彼の作品はCGとかあまり使わずローテク感を醸し出すような作りの方がいいのではないかと思う。今日びローテク感を醸し出す作りの方がかえって金かかるような気がするが。

サンライズ『Z.O.E. Dolores, i』『Z.O.E 2167 IDOLO』

Z.O.E. Dolores, i』。『Z.O.E 2167 IDOLO』とともに。
SoltyRei』に引き続きある意味「おっさんと少女」もの。ウィキペディアを見るとものすごい話にように見えるが、意外とまとまっている気がして面白かった。ちなみにウィキの記述がこれ↓

▪ 「主人公のもとに無邪気な美少女が転がり込む」
▪ 「ダメな父親が家族の絆を取り戻そうとする」
▪ 「死んだはずの妻からの伝言を受けた主人公が、妻を捜す」
▪ 「主人公が巨大ロボットに偶然乗り込む」
▪ 「一匹狼が大きな陰謀に巻き込まれる」
などのありがちな話を一纏めにし、
▪ 「一匹狼の運び屋をやっている初老のダメ親父が、家族の絆を取り戻そうと帰郷する途中、死んだはずの妻が建造した謎の巨大ロボットを入手。そのロボットには少女のAIがインストールされていて、「おじさま」と懐かれてしまう。そして謎の組織と当局に追われ、家族ぐるみで逃亡し、妻を捜しながら「少女」と共に戦い、巨大な陰謀に挑む。」
という、空前絶後のストーリーになった作品。

つまりこの場合「少女」とはドロレスなる巨大ロボットのことだ。別に『SoltyRei』のように少女の外観をもっているわけではない。普通にロボットだ。ちなみにこのドロレスを演じるのが桑島法子で、ちょうど『機動戦艦ナデシコ』を見た直後だったので、同じ桑島法子演じるユリカとのギャップがすごかった。
この作品の一番の特徴は、ロボットに自律性と自我があるということだ。いきなり前のエントリーで書いたことに反してしまうが、まあよい。ブックマークで囚人022さんにご指摘をいただいたのだが、SFの文脈ではロボットといえば搭乗型よりも自律型のものが主らしい。僕はSFの知識は全くないが、まあそうなのだろうという予想はつく。というのは、搭乗型のロボットというのは多分搭乗している映像があってなんぼだからだ。「SFの文脈」って要は小説の話だと思う(SFについて語る人はそういうメディアの問題についてはどう考えているのだろう)。つまり搭乗型のロボットをメインと考える考え方はアニメ特有のものなのだろう。さらにいうと、ハードSFの文脈からいったら多分搭乗型ロボットというのは突っ込みどころが多いのだろうし、そういうツッコミの言説をいわゆるオタクたちが享受していたという事実があるのだと思う。
まあそんなわけで、なぜ自律型は僕の考えるロボットアニメのテーマから外されたかというと、僕の考えるロボットとは手段であって、他者ではないからだ。あるミッションを遂行するにあたってロボットを使用する場合、もしそれが手段であれば必要なのは訓練であるが、それが他者ならば必要になるのは教育だ。そんなもん一緒だ、って考え方もあるのだろうが、僕はそうではない。なぜならばこのことはあらゆる人が操作できる可能性にかかわってくるからだ。ロボットに自我があるならば乗り手を選ぶだろう。そしてロボットが自律しているなら、そのミッションを遂行するのはロボットであって、直接的には命令を下しているものではない。そうなると僕がこのブログで比較的こだわってきた手段としてのロボットの位置づけ、そしてそのことによる不可能性の問題が成立しなくなってしまうからだ。ロボットアニメはロボットの搭乗者が何かをする物語であり、そして何かができない物語なのだ。しかし自律型ロボットはそもそも乗り手を必要とするのだろうか。この作品ではまさにそのことが疑問だった。自律型なのになぜかコクピットがある。ロボットであるドロレスは乗り手がいなくてもかってに動いたし、補給も自ら行っていた。ただ一つ意義があるとすれば、とりわけ戦闘時はロボットの中が一番安全だということだ。じじつ戦闘時は搭乗者である主人公は全然活躍していない感じがした。そしてしばしば搭乗者はドロレスの中に避難していた。

このロボットはもとから自我があったというわけではなく、後から人工知能を植え付けられたらしい。一応その理由も示されているようだ。要はあらかじめものすごく攻撃的で破壊的なプログラムがインプットされていて、それが実行されないために自我を植え付け、そのヤバいプログラムをいわば無意識へと抑圧したということらしい。だから、極限状態になるとドロレスとしての意識は失われて、そのヤバいプログラムが現れる。つまり暴走する。詳しいことはよくわからないが、そもそもそのプログラム自体を消去すればよかったんじゃないの? とか思うが、まあ結果的にはドロレスがそのプログラムを完全に制御できるようになるから、終わりよければすべてよし、という感じだが、それでも一つ問題は起こる。つまり、そもそもドロレスが悪いやつだったらどうするんだということだ。確か公式サイトでの説明では、そのヤバいプログラムを発現させないために、ドロレス自身はいわば何も知らない状態、要は赤ん坊の状態(なのに言語能力だけはある)に初期設定したということだが、だとすれば思考のパターンや(あるとすれば)感情は教育によって得られるということになる。すると初めて(だと思う)出会った人がドロレスが「おじさま」と呼ぶ主人公だったからよかったものの、誰か他の人、例えば主人公に送られる途中でドロレスが犯罪者によって奪われたとしたらどうするのか。何がいいたいかというと、ヤバいプログラムがあってそれを隠蔽するために自我を植え付けるということは結構丸投げな処置で、最悪の場合そのプログラムが発現してなおかつスタンドアローンということになりかねない。
形式的にいうと、まず強力で破壊的な衝動、欲望といってもいいかもしれない、そういったものがまずある。そしてそのあとにその欲望を隠蔽する自我がインストールされる。そしてその欲望は無意識へと封じられる。最初ドロレスはその衝動の強さ、に恐れおののくが、次第にその衝動を馴致することになる。まあそうなのだが、僕としては自我と衝動のトポロジーというか、両者の関係性をもっと突き詰めてほしかった。これはアニメとは関係ない僕自身の興味関心なのだが、自我の内面性とは何か、といった問いを提示してほしかったなと。
ある意味でいうと、押井版攻殻機動隊はそういう問いをたてていたのだと思う。いうまでもなく内面とは物理的な外部に対する内部ではない。客観的に検証し得ないいわば形而上学的なものだ。ではそういったものを表現するのにどうしたらいいか。おそらく押井の解決法は、自我をネットに接続可能なものだったり、電脳化できるものと考えるということだった。そうすることによって自我は純粋に主観的なものではなくなる。そして自我は「広大なネットの海を泳ぐ」存在となる。ではその存在はいかなるものか、ということを考えたときに、『攻殻機動隊』と『イノセンス』でちょっとありようが異なる。前者では自我の核(ゴースト)は記憶であった。記憶が失われるということは自我が失われるということに等しい(ゴミ収集車のおっちゃんとか)。しかし『イノセンス』では、確かバトーの台詞で、9課を離れた大佐は身体も記憶もすべて国家に返さなければならない、残るのはゴーストだけだ、というようなものがあったと思う。つまり記憶さえも自我の本質とは関係ないものとなったのだ。より強度に形而上学的なものになったといえる。この変化はある意味でヨーロッパに心理学の歴史の流れ(精神分析の誕生)と重なる部分があって面白いのだが、まあこういったものを突き詰めると、視聴者置いてきぼりになりがちなので、テレビシリーズではやりづらいだろう。それはともかく、ロボットが自我をもつとなると、そういった意識の問題に絶対にぶつかるだろう。他方で、手段としてのロボット、つまり、意識も自我もなく、(不測の事態をのぞいて)その行動が完全に操縦者に依拠するようなロボットは行動主義的だ。つまり、操縦者がしかじかのアクションをすると必ずロボットがこれこれのアクションをする、こういった行為の連鎖によってミッションが組み立てられることになる。操縦者がロボットについてどう思っているかとか、複数の操縦者が相互にどういう印象もっているかとか全く関係ない。『攻殻機動隊 SAC』にならっていえば、チームプレイなど存在せず、個々のスタンドプレーの結果としてのチームプレイしかない、ということだ。つまり信頼というメンバー相互の内面的なつながりではなく、必要なのはスタンドプレーをまとめあげる組織力が重要だということだ。そう考えると『攻殻機動隊』は押井版と神山版で全く異なることがわかる。前者は自我の内面性をいかに表現するか(もちろんこれは感情をどうやって表現するか、ということと全く関係ない)ということが中心的な問題だったと思う。その解決法は外部(ネットの広大な海)に接続する、といったものだった。それは言い換えれば内面の外在化だ。そして神山版ではその外在化をふまえた上で、ミッションとその達成を主眼におく。そしてさらに付け加えると、押井がなぜ『パトレイバー』シリーズから『攻殻機動隊』へ移ったかという点についても、この文脈で理解できるのかもしれない。つまり押井的なロボットアニメでは内面性は問題にできない。ロボットを操縦するということは極端な話内面性を消去(したことに)することに他ならない。したがって内面性を問題にするにあたってロボットは捨てなければならない。こういった考え方はロボットがある種内面性(あるいはその表現)の謂いである『エヴァ』と対極に位置するだろう。

このように考えてゆくと、僕のロボットアニメに関する嗜好は内面性の扱いと関連しているのかなあと思う。僕がリアルロボットだなと考えているものは、まず第一にロボットを扱う原理だったりそれを管理する組織だったりするものに感情や意識などを含めた内面性を導入しないものなのかなと思ってきた。なんか『Z.O.E. Dolores, i』について書こうとしたが、脱線しまくってしまった。まあよい。

ロボットアニメの定義の話

ちょっと前に囚人022さんのブログにロボットアニメについてちょっと書き込んだ。あまり人様のブログに長々と書き込むと失礼になるかもしれないのでここにちょっと補足を書く。というわけでそこで書いたものを引用。

僕が考えるのは(もちろん厳密に規定はできませんが)、人間では規模的、能力的にできないミッションがあるとき、何らかの手段が必要になります。その手段になりうるものの一つがロボットなんだと思います。場合によってはそれが「魔法」であることもあるでしょう。ジョジョだったらスタンドでしょう。僕は一応、そういった手段になりうる物質的な人型のもので、自我をもたないものをロボットといっていいのではないかと思っています。僕はこの手段という…に注目しているので、『のび太と鉄人兵団』のロボットとかは僕自身が考えるロボットには含めていません。彼らは自我をもっているので。ドラえもんも同様です。

これを書いた後でちょっと考えて、やはりこれは定義として考えるべきではないな、と感じた。定義というよりもテーマといった方がいいのかもしれない。「テーマ」という言い方が適切かわからないが、確かこれは文法用語かな? 文法というよりはシンタックスの問題だと思うが、この言葉は僕がフランス語を学んだときにおぼえたのだが、文はテーマとレーマによって構成されている。レーマとは述語的部分。日本語でいえば、まあ細かい区別はわからないが、「が」と「は」の違いがこのテーマとレーマにかかわっていると思う。「私は上岡龍太郎です」というのと「私が上岡龍太郎です」のちがい。前者においては「私は」がテーマとなる。後者は「上岡龍太郎です」がテーマになる。テーマとは文を構成するためのスタート地点のようなものといえばいいのだろうか。大喜利でいえばお題。それはコンテクスト的に既知のものでなければならないだろう。「私が上岡龍太郎です」といえるのは、「上岡龍太郎」なるものが万人に既知のものであり、それゆえにテーマになりうるものであるという自負が話者にある(というように本人が演じたい)からだ。
で、上の引用がテーマであるとはどういうことか。一般的には定義というものはレーマにかかわる。○○の定義を示せといわれたら普通「○○は××だ」と答える。そしてこの××の部分はレーマだ。また「○○が××だ」と応えるのは日本語としてちとおかしい。それで両者の違いは何だろうか。後者、つまり定義はかなり明確にその輪郭を規定する。それゆえにマージナルな作品、もっといえばギリギリはみ出るような作品が多くでてくるだろう。それゆえジャンルの定義は困難なのだ。それに対して前者、テーマははっきりとした外延は規定しない。むしろ複数の作品を結びつけたり、一つの作品の本質的な構成要素となりうるような問いを規定する。端的にいうと、上に示したテーマに反するものであっても、そのことによってロボットアニメに含まれないということはない、ということだ。例えば『ブレンパワード』。この作品にあらわれる「ロボット」はおそらく上の引用で示したロボットとは異なる。おそらくアンチボディなるものには自我があるからだ。では『ブレンパワード』はロボットアニメではないのだろうか。多分そうではない。正確にいえば、僕はこの作品も含めて上でロボットアニメを考えていきたいと思っている。囚人022さんのブログでコメントをくださったNishinomaruさんのご指摘の『エヴァ』についても同様で、このブログにも以前書いたように、この作品はおそらく重要な問いを提出していた。つまり敵とは何か、言い方を変えれば「ロボット」なるもの力を借りることでしか遂行できないミッションがあるとき、その対象とは何か、ということだ。その意味でいうと、コメントで書いた『のび太と鉄人兵団』については、訂正しなければいけないと思う。この作品で行われたことは、手段とその主体にかかわっている。つまり、人間が主体で、ロボットがその手段であるという自明性についてだ。その意味ではやはり排除することはできないのではないだろうか。
じゃあその問いとは何かって話になるのだが、それは作品と受容者の関係性の様態ではないだろうか。したがってそれは作者が投げかけた問いとは厳密には違う。『のび太と鉄人兵団』という作品が上で述べたような問いを作者が投げかけていたかというと、それはわからない。その意味でそれは客観的に検証可能なものではないだろう。その意味で僕は「ロボットアニメ」なるものをジャンルとして認識してはない(もしジャンルとは客観的に区分可能な何ものかであるとするならば)。そういうジャンルは存在しない、というのではなくて、作品と受容者の関係性の謂いである問いを考えるにあたって、ジャンルという考え方を前提とする必要があるのか疑問だ、ということだ。まあ何事でもそうだが、何かを語るのには多くのものをふまえた方がいいだろう、ということだ。

これでNishinomaruさんのご指摘に対する答えになったかどうかわからないが、とりあえず。

GONZO、AIC『SoltyRei』

GONZOの制作作品には評価の高いものとそうでないもののばらつきが大きいらしく、ニコニコとかでしばしば「よいGONZO」と「悪いGONZO」という表現をみかける。この『SoltyRei』は前者だと思う。まあAICとの共同制作だから、純粋にGONZOの作品とはいえないんかもしれないが。いずれにしても面白かった。アニメの中で一大ジャンルを形作っている(と僕が勝手に考えている)「オヤジと少女もの」だ。「一大ジャンル」とかいっても僕が知っているのは以前見た『コヨーテラグタイムショー』と最近見た『Z.O.E. Dolores, i』ぐらいしか知らないが。後者についてはいずれ何か書くと思う。
まあ広義のロボットアニメには分類されるのだろう。主人公の「少女」ソルティはロボットだ。アンドロイドというべきか。しかし搭乗型のロボットもでてこなくはない。人型ロボット(人の形、という意味というよりも人と同じぐらいの大きさ、という意味合いで)と搭乗型ロボットの大きな違いは、行為の主体がどこにあるかということだ。つまり誰が動かしているのか。搭乗型ロボットは当然搭乗者が操縦する。それに対して前者は自分で動く。ここで一つ問題が出てくる。何を基準に動くかということだ。兵器に限らなくとも、さすがにスタンドアローンというわけにはいかない。暴走するというリスクを何らかのかたちで回避しなければいけないからだ。そこで多くのアニメにおいて(まあ『ドラえもん』は別かな)人につくられた人型ロボットは何かしら目的を持っている。目的合理性にそって行動することをプログラムされることで、無秩序な行為をすることを防ぐ。たとえば『Ergo Proxy』のピノはコンピューターウイルスに感染する、つまり病気になることによってそういった目的を失い、人間とほとんど区別なく振る舞うことができるようになった。ロボット(およびそれを製作する側)にとってみればそれは欠陥だ。この作品においてはどうか。ソルティはある種の記憶喪失に陥っている。つまりプログラムされたであろう目的を忘れている。これが明らかになるべき謎となり、その謎が明らかになるという物語の一つの軸がある。
でその目的が何であるかって話なのだが、物語の舞台となっていた場所は実は地球ではなく、みな生存環境とはなり得なくなった地球を捨て、異星に移民してきたのだった。そのことを人々は全く知らず物語終盤まで普通に生きてきた。何かこうものすごい既視感にとらわれるのだが、まあそういうことだ。で、その既視感のとおり、基本的に構造は『メガゾーン23』と同様だといえると思う。つまり、自分たちの生存の場の本質が不可視である。そしてソルティを犠牲にしてみんなを救うか、あるいはソルティを守るかという誤った問いがある。誤った、というのは、ソルティが犠牲にならない限りみんなやられちゃうのだからそんな二者択一はあり得ないからだ(もちろん「本当にやられちゃうのか」という問いは残る)。しかし主人公のおっさんであるロイにとってはソルティは娘のようなものだし、そもそも今いる場が地球じゃないということ自体直前に知らされたことで実感がないだろう。このように生存の場が不可視化されていることによって偽の問いが立ち上がるという点においては『メガゾーン23』と非常によく似ている。しかしこの問いを抱えているのはロイだけであり、ほかの登場人物にとってはそんな問いはない。もうなんというかしょうがない、という感じだ。まあ当然だ。どっちにしろソルティは死ぬ(破壊される)からだ。
まあそんなわけで、僕はこの作品に『メガゾーン23』的な構造を見て取ったのだが、それは相当に抽象化しての話だ。当たり前だがいわゆる物語内容という観点からすれば全然違う。

面白い作品だったと思う。よく考えたらGONZO作品については僕は「よいGONZO」にしかであってないと思う。こうなるとちょっと「悪いGONZO」なるものも見てみたいとは思う。世間的には『HELLSING』あたりなのだろうか。