スーパーロボットいろいろ

ご無沙汰しております。

アニメを見なくなって久しかったのですが、ちょっと某所でアニメについて発表しなければいけない事態になってしまいまして、またちょくちょく見だしています。こちらにもまた書くことになろうかと思います。そんなに頻繁にではないかと思いますが。

まあとはいえアニメについての知識がない僕としては、話す内容はここに書いてきたことをまとめることしかできないので、その路線で考えてます。そして話す時間も相当限られているので、大雑把な概説をするぐらいでしょうか。結論としてはリアルロボットとは本質的にロボットの否定であり、その意味でロボットアニメとはスーパーロボットアニメでしかない、ということになるかなと思います。この観点から昨今ロボットアニメが減っていることも説明がつくのではないかなと。まあそのあたりは『タクト』とかを見てからですが。

そしてその上でリアルロボットアニメに積極的に関わった富野由悠季高橋良輔河森正治押井守らがどういうことをしたかを語る、って感じでいこうと思うんですが、問題はこれを20分で語れるかってところなんですよね…。

まあそのへんの話についてはおいおい考えていこうかと思います。そんなわけでここ最近見たのは、『超獣機神ダンクーガ』TV版およびOVA版、『獣装機攻ダンクーガノヴァ』、『勇者ライディーン』、『マジンガーZ』、でいま見いてるのが『グレートマジンガー』、『巨神ゴーグ』。比較的スーパーロボット系を中心にみてきたけど、やはりリアルロボットを知るにはそういうのも見ておかなければいけないな、ということで。近いうちに『ゲッターロボ』関係も見ておくべきかとも思ってます。これらの作品、とりわけ『機動戦士ガンダム』以前(と言っていいのかな)の作品を見て漠然と思ったのは、リアルロボットについてここで問うてきた問いはあまり通用しないのかなということだ。例えばとりわけ押井が強調したようなロボットの操縦可能性(基本的に熟練すれば誰にでも操縦できなければいけないということ)とか、あるいはロボットの量産可能性とかについてはあまりあまり明確になっていない感じがあった。つまり本質的に量産できるのかできないのか、あるいは誰にでも操縦可能なものなのかそうでないのかはっきりしない。設定上詰めてないのかなという感じだ。『マジンガーZ』でアフロダイAが破壊されたのちダイアナンAが作られたが、アフロダイAをやや戦闘向けに改良したものなのか、あるいは同じロボットを作ることができないのか判然としなかったように思う。もちろん演出上の必然性、今でいえばキャラ立ちさせる必要性があるのはわかるのだが。操縦可能性についても、兜甲児は最初ちゃんと操縦できなかったわけだが、では他の人はどうなのか、無粋な言い方をすれば甲児が怪我をしたときに他の人が操縦できるようにしておかなければいけなかったのではないか。つまり設定上の問題か演出上の問題かがアニメを見た限りだとはっきりと分かれていないように思える。

もしこういった区別がはっきりと出てきたことがリアルロボットの出現と関連するなら、リアルロボットが操縦可能性と量産可能性によって規定されるというのではなく、リアルロボットという問いは操縦可能かそうでないか、量産可能かそうでないかという選択肢を生み出したということになるかもしれない。新たな設定を生み出したのではなく、新たな問いを生み出したということになる。

まあそんなわけで、ガンダム以前のスーパーロボットものも見いておかないといけないなと思いました。長くてきついんですが…。

京都アニメーション『CLANNAD AFTER STORY』

今更ながら『CLANNAD AFTER STORY』を見た。多分『とらドラ!』と並んで反響があったアニメだと思うが、具体的にどういう反響なのかはあまり追っていないので分からない。ただスカイプでコンタクトのところに「うしおおおおおおおおお」とか書いている人がいて、最初「うしお」って何のことか分からなかったが、まあたぶん、これも反響の一つだとは思う。

そういえばノベルゲーム原作の作品を見たのは久しぶりかもしれない。スクイズ以来かな? いずれにしても正直あまり興味をもって見てこなかったことは事実だ。その理由はおそらく大分前に新海誠作品について書いたこと(新海誠『秒速5センチメートル』)と関連しているかもしれない。
どういうことかというと、あるタイプの物語(僕自身はすべての物語、といってもいい気がするが)は喪失を描いているが、それは大雑把にふたつに分類できて、失うことを描くもの、そして失ってしまったことを描くもののふたつだ。前者においては物語は喪失の瞬間にクライマックスを迎え、後者では過去の喪失の瞬間に対する気付きに向けて物語が進展する。前者において喪失を味わう者は未来を思い(あの人のいないセカイ)、後者では喪失にもかかわらず過ごしてきた過去を思う。僕の考えでは後者の方が絶望的で、悲しい。
喪失とは主観的なもので、ボールペンのキャップをなくして深い喪失感を味わう人もいればそうでない人もいる。その意味では前者の物語のタイプにおいてはある人が喪失感を味わうであろう出来事に向けて展開するので、その人がそれで喪失感を味わうかどうかは厳密にいえば保証されてはない。だからそれほど絶望的ではない。端的にいえば未来において乗り越える可能性が与えられる。しかし後者の場合はまったくそうではない。なぜならば問題なのは出来事ではなく、喪失を味わった出来事に対する想起だからだ。後者のタイプは常に過去を指し示す。もちろん未来においてそういった感情を乗り越えることはできるかもしれない。しかし問題なのはそういった認識にたどり着いてしまったという事実なのであって、その点は消去できない。だから後者の方がより悲劇的だといえると思う。

で、僕がノベルゲーム原作の作品にあまり興味を持てないのは、そういった喪失に対する気付きに向けて語られる物語があまりないということと関連しているのかなと思った。いわゆるバッドエンドというものはある。しかしそれは場合によっては残酷なエンディングを迎えるということに過ぎなく、喪失に向かって物語が進むといういってみれば『世界の中心で愛を叫ぶ』タイプ(見たことないけど)とさして変わらない。その意味でいうと以前ここでも言及した『D.C.』はかなりラディカルだったと思う(『ZEXCS/feel.『ダ・カーポ』とAIC A.S.T.A.『ガン×ソード』 』)。つまりつまりそもそも喪失なんてないといったのだから。喪失が主観的なもので、客観的な事実と必然的な関係を結んでいない以上、それは間違いではない。その意味では興味深かったのだが…。

で、id:hazumaさんの エントリー を見て、これはノベルゲームに本質的なことがらなのかなあとか思った。こうある:

渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。不幸な人生にも幸福な人生が可能性の芽としては畳み込まれており、またその逆もある、というのがマルチエンディング・ノベルゲームが提示する世界観なのであり、それは原理的に、「主人公が努力すれば幸せを掴むことができる」という通常の物語とは異質なものです。
したがって、CLANNAD AFTER STORYの最終2話で、朋也がある一方の人生から別の一方の人生に突然にジャンプしたとしても、それはまったく原作の世界観を損なわないとぼくは考えます。そして逆に、放映直後のエントリでも書いたように、あの最終話が単なるハッピーエンドだとも思わない。というのも、あの最終話を観たあとでも、ぼくたちは渚と汐が死んだ「別の世界」を忘れてはならないはずであり、そしてその忘却不可能性はアニメ版でもしっかり演出されていたと思うからです。汐はCLANNADでは、救われていると同時に救われていない。そんな両義性こそが、美少女ゲームの魅力の核心ではないでしょうか。

そもそも僕はノベルゲームをやったことないのでよくわかってなかったが、マルチエンディングじゃないものもあったんだな、ひぐらしとか。でもひぐらしでも少なくともアニメ版を見る限りにおいては上の指摘は当てはまるだろう。しかしそうなると決定的に喪失への気づきに向かう物語は実現されない。なぜならばその気付きとは喪失にもかかわらず過ごしてきた過去が一気に色あせてしまう瞬間であり、そういった過去が無味乾燥で、何ものでもなくなってしまうことに対する想起だからだ。それに対してノベルゲームにおいてはそういった過去すらも何かに資してしまう。id:hazumaさんが指摘する両義性とは、喪失という事実も失われないですむという可能性に資するという両者の逆説的な関係だと思う(その逆も)。つまり無駄なものは何もない、ということなのかなと思った。
僕が惹かれるのはまさにこの無駄なものであって、失ってしまったことへ向かう物語とは自らの過去が一瞬にして無駄なものになってしまうという悲劇だった。『CLANNAD AFTER STORY』は最終話まではそういうことを描こうとしていたのかなあと思ったが、そうではなかったようなのでいささかがっかりした。

子供向けロボットアニメ

最近アニメを見る本数がぐっと減ってしまって更新が滞っていたのだが、twitterでリクエストをいただいてやはりそういうのはありがたいので何か書こうと思う。たしかtwitterでは、最近の作品で何か記事を書いてくれないか、とのことだったが正直あまり見てないんですよね…。

僕にとってアニメはロボットアニメ中心に回っているのだが、今更だけどロボットアニメってやっぱり尻すぼみになってきているのかな。ロボットがでてくる作品でもロボットを中心に語る気が起こらないというか、そういう感じがする。たとえば『忘念のザムド』とかもたしかロボットがでてきたけど、べつにロボットがどうこうじゃないよな、という感じか。あと『コードギアス』もいろいろブログとかを見る限りロボットアニメの文脈で語っているのを見たことがないがどうなんだろう。

まあそんなわけでちょっと前のロボットアニメとかを見た。『ゾイド』と『メダロット』。ちょっと前どころじゃないかな。まあとにかく、両者には共通点がある。ふたつとも玩具の販促的な側面が強いということだ。いずれもWikiの情報だが『メダロット』の場合はゲームと漫画連載がまず始めにあってアニメ放送はそのあとらしい。『ゾイド』はゲームではなくて1/72のスケールの組み立てキットがはじめで歴史はかなり古い。今回見たアニメの約20年前にすでにアメリカで発売されていて、なんかいろいろ複雑な経緯をへてアニメが放送されることになるのだが、どうやら評判が良かったらしくてその後も続編がつくられた。見るまでは『ゾイド』についてはロボットがでてくるということしか知らなかったが、『メダロット』は岡村天斎が監督をしたということは知っていて、神山健治がやたら評価してたという記憶はあって気にはなっていた(どうやら『メダロット』制作にかかわっていたから下駄を履かせてた部分があるのかもしれないが)。

こういった漠然とした前情報から何となく子供向けアニメなんだろうなあと思っていた。たぶんロボットアニメといえば子供向けという時期はあっただろうし、勇者シリーズなど(それが子供向けだとして)ロボットアニメを語るのに重要な作品群もあるだろうが、はやりリアルロボット好きの僕にとっては子供向けはなあ、という偏見があるので正直気が重かった。ところが『ゾイド』はストーリー的にはあんまり子供向けという感じではなかったな。『メダロット』は本格的に子供向けという感じだったが。

しかしここで問題にしたいのはストーリーとかではなくて、一点だけ。というかその点しかおぼえていない。一言でいうとロボットに対するフェティシズムだ。ここのブログの文脈ではロボットをモノとして扱うのがリアルロボット系で、その逆、というか、ロボットをコミュニケーション可能な存在として(つまり人として)扱うものを非リアルロボット系と扱ってきたが、フェティシズムとはこの図式の中で理解できる。端的にいうと、どちらの作品もゾイドやらメダロットやらとコミュニケーションを図ろうとする者=分かっている者、それらをモノとして扱っている者=分かってない者、という図式がある。特に『メダロット』では終盤まさにこのことがテーマとなる。そしてこのことは、当該のロボットに関する心理ということではなくて、ロボットに対峙する登場人物達の倫理の問題であるということが重要だ。

ここで対比すべきは、『機動警察パトレイバー』TV版だ。すでにこのブログで述べたが(こちら)、TV版、とりわけ終盤は泉野明のアルフォンスからの自立の物語として描かれている。そこでは野明のアルフォンスに対する偏愛は原体験における喪の感情の埋め合わせに過ぎなかった。つまり過去の喪失を真に乗り越えることを怠った結果であると言える。

まあ一言でいえば、『パトレイバー』においてはロボットは他者ではあり得ないが、『メダロット』や『ゾイド』においてはロボットは他者たりうる、ということになる。イッキのいうように、メタビーはモノではなくて友達である。もし「子供向けロボットアニメ」とそれ以外を区別するようなジャンル分けが可能であるなら、それはロボットをコミュニケーション可能なものととらえるか、そうでないか、ということによってできるのではないだろうか。何となくおもちゃの売り上げとかを考えると、こういう考えは妥当な気がするが、細かいことは勇者シリーズとかを見ないとちょっとまずいかなとは思う。あまり見る気が起こらないのだが。

今回はメモ程度に。

『神魂合体ゴーダンナー!!』、『機動戦士ガンダムSEED』ほか

実はこの作品は何度もチャレンジしたが一話でことごとく挫折していた。しかしロボットアニメに関して僕の視聴経験はやや偏っている感じがしたのでがんばってみてみた。ちなみにその前に種シリーズ(『機動戦士ガンダムSEED』『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』『機動戦士ガンダムSEED C.E.73 STARGAZER』)をみたのでそれとの比較したりしなかったりしながら見たが、なんというか意外と見てみるとそんなに厳しくはなかった。まあ食わず嫌いというやつか。というわけでそのことが妥当かどうかわからないが両者を比較してみる。

おそらく種シリーズを見た直後だから気になったことなのだろうが、両者の一番の違いは負の感情をどう扱うかということなのだという気がした。『神魂合体ゴーダンナー!!』では嫉妬やら怒りやら憎しみやらといった感情があまり悪い感情だとは、正確にいえば排除しなければいけないものだとはみなされていない。むしろ敵に立ち向かうための原動力のようなものとされているようだ。何しろ前期のエンディングテーマからしてそうだ。この辺りは種シリーズと鋭く対立する。むしろ種では例えば復讐心にともなう憎しみの感情は悪い、排除すべき感情として退けられる。さすがにそういった考え方には与することはできない。被害者感情を無視して死刑廃止を訴える人たちのようだ。感情を持つということは事実の問題であって、感情に関する問題は事後的な問題でなければいけない。つまりそういった感情を持ってしまった後にどうすればいいか、という問題で、もってしまった感情をなかったことにしろということはできない。もってしまった感情を事後的に裁くというのはそれこそ「良心の疚しさ」を生むことにしかならない。ぶっちゃけていえば、アスランにしてもキラにしても、ほかの人にはない強大な力を持っているからそんなこといえるんだろ、という感じがする。この場合の力とは直接的にはガンダムだしコーディネーターとしての能力ということになるのだが、抽象的にいうと出来事の前に何らかの働きかけをできる能力ということになる。何らかの過ちを起こす、後悔する、しかし彼らは未来を見ることができる。どういうことかというと、未来に起こる出来事に対して備える(予見する必要はない)力を持っている。しかし(特に悪い)感情にとらえられている者はそういった未来を指向することができない。感情という過去がその者に取り憑いているからだ。形式的にいうとこうなる。つまり出来事をさかいにして物事の継起が「前」と「後」に分断される。ある感情にとらえられる、とはこの出来事の「後」の現象だ。そしてこのこと、つまり感情を持ってしまうことが消去不可能なことがらだとすれば、「負の感情を持ってはいけない」という種シリーズ的な当為はいまだ生起せざる来るべき出来事についていわれなければならない。もちろん出来事は無限に連鎖する。したがって負の感情をもってしまったことを教訓としたこの当為は「次の出来事」のために用意される。つまり『機動戦士ガンダムSEED』に対する『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』だ。このような当為を背負うことによってキラは成長し、アスランの誤りを正すことができた。しかしみんながキラのようではない。むしろ彼は例外的だ。端的にいうとこういった当為にしたがって振る舞うことが大局に大きな影響力を及ぼすということに自覚的であり、実際にそのとおりであるという点において例外的だ。ガンダムはほとんどどの作品においても敵に敗れることのないスーパーロボットだ、という意見をネット上で見かけたことがあるが、そういった無敵さがキラの「ただしさ」を保証する。逆に言えばそうではない凡人達にとってはそんな「ただしさ」は何の役にも立たない。キラが何を言おうと彼らは時には悪い感情に支配されるし、それによってあらそう。それは愚かさではない。なぜならそういった凡人達の振る舞いの愚かさ、弱さがガンダムの強さを相対的に際立たせ、さらにキラが「ただしく」振る舞うことを結果的に可能にするからだ。
なんかよくわかんなくなってきたが、いいたかったことは、種シリーズにおける負の感情の否定(そういえば富野ガンダムではそういったことは見られなかった気がする)はふたつのことを条件としている。つまり出来事の連鎖によって主人公が学ぶということ。もうひとつはガンダムの圧倒的な強さだ。ところでここでの出来事の連鎖とは何か。それは「敵」と「味方」との関係性だ。ほとんどのガンダムTVシリーズでは、ある敵味方の組み合わせがひとつの出来事を形成しており、その組み合わせが変わると次の出来事に移る。たぶんガンダムTVシリーズ(富野、非富野かかわらずだが、富野ガンダムの方がその傾向が強いかな)の特徴はこの敵味方の非自明性だ。味方だと思っていたものが次の瞬間敵になる、その逆もしかり。登場人物が相手の陣営に移ったり戻ったりするのは過去の出来事によって引き起こされる学びの結果であり、次の出来事のための学びの契機でもある。

こういったことが『神魂合体ゴーダンナー!!』ではまったく見られない。僕のもつ「スーパーロボット」の印象は、むしろ負の感情はいけない、というか負の感情なんて簡単に乗り越えられる、みたいなことを描く、といったものだったが、むしろ「そんな気持ちになっちゃうよね」みたいな感じだった。そして時にはそういった負の感情も力になると。真に力となるのは愛だ、とこの作品は言うがその表現はさまざまだ。そしてその中に嫉妬やらも含まれる。感情の問題に否定はない。否定しようがない。したがってそこには学びはない。そこにあるのは反復だけだ。おそらくその理由は敵が自明だということにあると思う。病気のためにパイロットがおかしくなって味方に襲いかかるということはあってもそれは「おかしくなった味方」であって敵ではない。まあ敵はたぶん知性のない生命体なのでまあガンダムシリーズと比較するのすらあほらしいのだが*1、この自明性は以前見た『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』(関連エントリー)にも共通しており、これらの作品はガンダムやそれに近接する作品と鋭く対立していると思う。そしてこれはさんざん言ってきたことだが、この敵の自明性は「燃え」と深く関係する。敵が敵であることが疑い得ないとすれば、迷うことなくていに戦いを挑むことができる。その迷いのなさが熱さを生む。ガンダムシリーズにはこの種の燃えはない。正確にいえば燃えることはできる。しかしそれは「迷いにもかかわらず」燃えるのであって、迷いがないわけではない。コミュニケーションは常に迷いを誘う可能性をもっており、もし「燃え」というものがスーパーロボットを規定しているとするならば(それは原因ではなく結果であろうから僕自身はそれに100%与することはないが)、どれだけそのロボットが作品内で無敵であろうとも種シリーズにおけるガンダムゴーダンナーとでは同じ意味でスーパーロボット的だとはいい得ないだろう。まあそんなこと言ってる人はいないか。

*1:いま『シムーン』を見ているが、そこではたぶん敵が人間であるにもかかわらずいまのところ(第16話まで見た)敵味方ははっきり別れている。たぶんそれはまず第一に喋っている言葉が違うからだ。敵国の人が喋っている言葉は主人公達の耳にはどうやら意味不明に聞こえるらしくそのように演出されており、また両国の言葉を解するものはこの段階までにごくごく一握りしか登場しておらず、その人達ももう死んでしまった。まあこのことについては僕は富野作品関連ですでに述べたが、こういった敵味方の非自明性というものはコミュニケーションの可能性に依拠しているということができると思う。

サテライト『マクロスFRONTIER』

見た。正直あまり書くことがないかなあとか思ったが、ネットで特に最終回についての反応をちょっと見たのでそれに関連して書こうかなと思う。映画化が決定したようだが、それは総集編なのだろうか、あるいは続編に当たるのだろうか。後者なら今何かを書くのはどうなのかとは思うが、映画化の詳細についてはよくわかっていないので、まあ今何か書いてもいいかなと。

で、見たのがこちらのブログ:

「マクロスF」の最終回って結構ひどくないか? 特に三角関係に関して〜河森正治監督と吉野弘幸さん一体どうなのよ〜 - 海ノ藻屑

ブックマークがたくさんついているので、かなり反響があったエントリーなのかもしれない。

まあ僕にはシナリオの良し悪しについて語る権利はないので、選択をさせなかったシナリオがどうかというよりも、むしろこれまでの河森作品群のなかでどう位置づけられるかについて考えた。実はこの点についてあまり書くことがないのかなと当初思ったのだが。
どういうことかというと、このブログで散々かいてきたように、河森的な問いはいかに戦いをしないか、ということだが、その点について新たな回答が(完全なかたちでは)この作品ではあまり出ていなかったのかなあと思ったからだ。これも繰り返しだが、この問いはいかに戦いのない世界を実現するか、という問いとは異なる。この問いはそれを実現するための戦いは否定されないからだ。そうではなくて河森的な問いはどんな戦いであれそれを否定する、というものだ。それは一方に味方がいて他方に敵がいるという位置づけを認めない。端的にいえば本質的には敵は存在しない、という考え方だ。『超時空要塞マクロス』(以下ファースト)では外交交渉によって結果的には敵ではなくなるし(関連エントリー)、『天空のエスカフローネ』では「想いが伝わる」ことによって戦いは終息する(関連エントリー)。また『創聖のアクエリオン』では意味不明だが敵と味方が合一する(関連エントリー)。いずれにしてもそこに共通しているのは当初敵だとされていた者たちが決して駆逐されることがないということだ。そしておそらくこの思想が最も明確に、ある意味で純粋なかたちで示されたのが『地球少女アルジュナ』だ(関連エントリー)。「純粋な」といったのはそれが必然的に含む矛盾やアポリアを含めて示されていたからだ。端的にいうとこういうことだ。戦いはそれ自体が誤りだ。戦いをしようとする者はその対象を誤って敵と認識しているから戦いをするのであって、「敵という認識」そのものが誤りだ。なぜなら本来自然とは調和に満ちているものであり、自然のなかには本質的に争いは存在しない。それを争いと見るのは人間の誤った理性によるものであり、その誤った理性によって発せられる言葉によって人々は誤解しあい、争う。河森にとって自然とは本来すべての生きるものが分有しているものであり、そこから言葉、理性、個人の感情などは排除される。そしてこの考え方は『マクロスF』にも反映されていて、最後に艦長が言うようにバジュラは敵ではない。よって歌は兵器ではない。そうでなければわざわざ『マクロスII』を正史から外す必要もない。

当然こういった考えはいくつかの点で問題を喚起する。そして最も大きな問題のひとつについては作品内で直接的に語られている。それは妊娠中絶の問題だ。河森的な観点からすれば中絶は端的に誤りだ。つまり生む母親の感情などは誤りに過ぎないのだから、この点を除けば中絶は殺人と変わりない。

さすがにそれはないだろう…、とか思ったが、上記のような自然、あるいは生といってもいいのかもしれない、を原初的なものとして考えるとそうなるのかもしれない。

そうやって考えると、マクロスシリーズにおける三つの要素、「歌」「可変戦闘機」「三角関係」のうち、最後の三角関係はこのような河森的な思想と非常に相性が悪い(それに対して歌は非常に相性が良い)。河森的思想を元も子もないかたちで翻訳すると「自然に帰ればみな幸せ」ってことだと思うが、三角関係でそれは難しい。『ファースト』においては戦争と平和の問題と三角関係がまったく別の次元で進んだので一条がどういう選択をしてもあまり大局に影響しなかった(と思う)。『マクロス7』では主人公、つまりバサラの観点からしたら選ぶ方というよりも選ばれる方(だったと思う)なのであまりそういうことも気にならなかったのかと思う。しかし少なくとも『アルジュナ』以降、もしかしたら『エスカフローネ』以降かもしれないが、個人の「想い」と世界の情勢がある種相似形になっているという感じがあるので、一方で修羅場、他方で平和への努力、といった感じは表現しづらくなっているのかもしれない。

つまり『マクロスF』において主人公が決断できないのはこれまで示された河森的思想に鑑みるとある種必然かなと思って見ていた。しかしこの作品においておそらくこれまでになかった新たな側面があらわれているような気がした。それはコミュニケーションへの希求だ。たとえば『アルジュナ』においては言語なるものは単に自然を間違ったかたちで表現したものに過ぎなく、それゆえ排除されるわけだが、それに基づくコミュニケーションなるものもまったく重視されない。『エスカフローネ』における「想いは伝わる」ということもなんかよくわからないが言語的な媒介をへずになされる。その最たるものが『マクロス7』で、歌しか歌わないでバサラは「なんで判りやがらねえんだ」みたいなことをのたまう。そりゃ判らんだろ、とか思うが、ここでの理解は歌という言語を越えた何ものかによって伝わるものであり、しばしばマクロスシリーズにおいて歌とは非言語的なものとして考えられてきている。それゆえに歌は河森的な思想と非常に相性が良い。

しかし今回の作品では、『アルジュナ』での思想の乗り越えの試みが見られると思う。一言で言えばコミュニケーションの問題に取り組みだしたということか。むしろ原初的な統一への回帰を夢想したのはラスボスのグレイスであって、主人公達はそれを明確に否定する。そして最後の最後に示されるのは歌というのも言語を越えた何ものかではなくて、求愛の手段であるということであり、ここで恋愛と歌が結びつく。これはたぶん河森的思想という観点からすれば、ある種の発展であって、そしてそれは完結していない。だから劇場版かなんかでそれを引き継いでほしいとは思う。まあ別の作品でもいいのだが。いずれにしてもなんというか過渡期なのかなとは思う。

作画崩壊についての元も子もない話

久しぶりに自分のエントリーに対するブックマークを確認していたら、「作画崩壊」について議論がおこっていたようなので、ちょっと読んでみた。

アニメの作画のはなし - だいの闇鍋食堂はてな店
作画の乱れについて言及すること - 雑記
そんなに「作画」「作画」言わなくても・・・。 - さよならストレンジャー・ザン・パラダイス

ほかにも関連エントリーがあるかもしれない。僕も以前関係するエントリーを書いたことがあるので、ちょっと興味をもって見た。

まあ基本的には立場はふたつで、「作画崩壊」と呼ばれているものを重視するかしないか。もちろんエントリーを細かく見てみればこんな分類は乱暴なのだが、いずれにしても僕が見た限りではこのふたつの立場を両極とした線分の中にみな位置づけられてしまうのかなと感じた。言い換えればその他の視点がないのではないかと。正直言ってこういった対立はあまり生産的な感じはしない。それは両者の立場とも前提を共有していないようで共有しているからだ。共有していないようで、というのは人それぞれ「作画崩壊」になるものについての考え方が違うからだ。共有している、というのは、にもかかわらず「作画崩壊」なるものがある、という点において両者とも同意しているように見えるからだ。僕は以前のエントリーでこの問題について書いたときは、この両者の立場のうちどちらにも与しないように気をつけた。というか気をつけるも何もどちらも意味があるように思えなかったのでそういう立場には立てなかった。そこで考えたのは、ではなぜこういった作画崩壊についての言説が生まれてきたのか、ということだ。一言で言えば受容する側が作品の単位をどうするかによってそもそも作品そのもの輪郭が異なることによるのではないかという仮説を考えた。今回はもうちょっと違う観点から同じことを考えたいのだが、もっと元も子もない話になると思う。僕はここで議論されている方々と比べて、あるいは一般的にもかなり知識がない方なので、どうしても話が形式的なものになってしまうが、ことを整理するのにそちらの方が意外と有効かなと考えている。

結論から言ってしまうと、「作画崩壊」の問題というのは事実性の問題でしかないのではないかということだ。つまりある作品についてある時期に作画崩壊があると言われているから作画崩壊があるのであって、それは根源的なレヴェルでは作品固有の問題としてあるのではないと。まあ実は前回のエントリーでもそういうことが言いたかったのだが、まあよい。要するに作品の問題と言説の問題は別で、「作画崩壊」なるものはどう考えても言説の問題でしかないのではないかということだ。どういうことかというと、単純化して言えばふたつの立場は語る対象は同じであっても異なる言説の秩序の中に身を置いていて、おそらくそれぞれ別の真実を分有している。真実を分有している以上どちらかが完全に間違っているとは言えない。根本的に両者を対立せしめているのは、おそらくある種の倫理、というかある問題に対してどういう対処をするべきなのかという点なのだと思う。なんつーか自由主義社会主義みたいなもので*1、マーケットの中でクオリティの高いものをふるいにかけることで市場自体を活性化させようとする態度*2と、そこで働く労働環境や労働者の立場を守り向上させることで全体的な底上げを望む態度と。おそらくどちらも抽象的な意味で「質の高さ」を望んでいるということは言えると思う。問題はその方法論ではないかと思う。つまりこういった対立の方が本質的で、その対象となる「作画崩壊」というものについては、今回たまたまそれが対象となっているだけで、その対象がなくなったとしても対立自体はなくならないだろう。

事実性とは恣意性である。つまりある現象があることとそれが語られることは直接的で因果的な関係によって結ばれてはいない。むしろそれが語られることによって(つまり恣意的にだ)それがあるとされる。その意味で「作画崩壊」を例えばニコニコ動画などで糾弾する人たちに対して「お前らたまたまだめなアニメ見ただけだろ」とその恣意性を指摘したとしても、それに対する反論として大昔の作品の「作画崩壊」を指摘する態度もいってみれば同じ穴の狢だ。

すごく大雑把にいってしまえば、そしてよりラディカルにいえば、僕の考えとしては、「クオリティ」なるものを語るという行為は必然的にそして不可避的にこの恣意性を看過してしまうだろう*3。僕自身はこのブログでも、そういった「クオリティ」なるものについては語らないようにしてきた。その理由は第一に「クオリティ」なるものが何なのかわからないということもあるのだが、何よりもより問題なのはその「クオリティ」を判定する基準の方が問題だと思っているからだ。それについてはかつてのエントリー(『絵の上手さの話』)で書いたとおりだ。僕が読む限り「作画崩壊」について語る人たちは、それにかかわった人たちを批判するのであれ、擁護するのであれ、そういった基準そのものの問題を看過しているように見える。言い方を変えれば「作画崩壊」の(言説化の)恣意性を看過しているということだ。このことは作画だけではなく、演出(『演出の良し悪しの話』)でも脚本の面でも同様だ。

*1:とくにid:y_arimさんはtwitterや日記を拝見する限り政治的に左な傾向がありそうなので。

*2:この観点からすればid:angmarさんがおっしゃるように過去のクオリティがどうだったかということはあまり問題にならない。むしろ市場が成熟していない状態だからこそ低いクオリティが維持されていたということならば、「作画崩壊」なるものは市場の未成熟の証となるだろう。要はいいわけでしかないということだ。

*3:教養主義というのはこういった恣意性を事実性として認めてしまうということにあるのだと思う。

サンライズ『FREEDOM』

結論から言ってしまえば、「あれ?」とか思ってしまった。あまりよくない意味で。たしかに、CGで絵を動かしているからなのかもしれないが、何というか、人形浄瑠璃的な動きが気になったこともあったが(『警察戦車隊 TANK S.W.A.T.』ほどではなかったが)、その点については7話をみる頃には慣れていた。そうではなくてやはり脚本面なのかな、この問題は。

そこにはいる前に前提として一般的なことを言っておくと、アニメ(およびマンガそしてSF)においては自由の問題というのがテーマになりやすい。もっといえば個人の生存とその不可能性との対峙の問題というか。その理由は僕にはすでに与えられていて、不可能性を与えるものの全貌を描くことができるからだ。現実的にはそれは不可能だろう。もし描こうとすればそれは多分カフカ的にならざるを得ない。つまりよくわからないものであると。いずれにしてもアニメにおいてはこういったいわば近代性に関わる問題がしばしば扱われるのであって、そのため僕はこのブログでそういったテーマについて見てきた。具体的には『スクラップド・プリンセス』『Heat Guy J』『TEXHNOLYZE』『Ergo Proxy』『THE ビッグオー』などだ。僕はどうしてもカフカ的な結論にシンパシーを感じてしまうので、『Heat Guy J』『THE ビッグオー』的な決断(決別)、『TEXHNOLYZE』的なニヒリズムに共感を覚える。小中千昭好きなのかな。ぶっちゃけていえば我々の生存を困難にするものなど存在しないし、そんなものとは別の次元で生きていくしかない。『スクラップド・プリンセス』に関しては、認識としては正しいと思うが、チキンな僕にとってはあまりにも英雄的すぎた。

で『FREEDOM』についてだが、シリーズ構成は佐藤大とある。wikiとかをみると彼が主導的な立場で物語を作ったのは『交響詩編エウレカセブン』『Ergo Proxy』とこれになるのかな。『Ergo Proxy』ではチーフライター、あとのふたつではシリーズ構成とある。一応この三つについてはすべて見たが、僕はこの作家についてはいくばくかの不信感を持っていて(もちろんこの作品の構想自体を彼のものといえると仮定しての話だが)、彼は上述のような生存を困難にするような不可能性というものについての思考を怠っているのではないかと感じている。例えば『スクラップド・プリンセス』においてはそういった不可能性を破壊し、自由を手に入れたかのようだが、よくわからないものが攻めてくるかもしれないという不安は決してなくならない。その意味でいうと、主人公のパシフィカの側も、敵対していたピースメーカーたちも同じようにこの不安を持っていた。アルトー的にいえば受刑者も執行人も同様にしたがわなければならない残酷さ、必然性は決して失われることがない。だから最後のパシフィカの決断が英雄的であったのだ。『Ergo Proxy』においては、人々の生存を可能にするものはロムドというドーム上の都市だ。逆に言えば、ロムドが人々の生存を可能にするものだということで、同時に人々の何らかの自由を奪うものであるということにもなる。まあ端的に言えば外に出られないと。このことは『THE ビッグオー』にもいえる。だからこそ、主人公は自らの記憶を捨ててまでこの街を守ろうとしたのだ。人々に生存の可能性を与える街とは同時に人々を縛り、ある種の不可能性も与えるのだ。そしてこの作品においてはその不可能性とは記憶の欠如というかたちで現れていた。なので『Ergo Proxy』の最後において崩壊した街を捨ててリルが旅立つところを見ておいおいとか思った。いやもちろんリルは免疫をつけたから街をでても大丈夫だというのはわかる。じゃあなんでほかの人は街をでなかったのか? もっと正確にいえばなぜドームの外を開拓しようとしなかったのか? まあいずれにしてもそういった可能性/不可能性の問題というのが実は問われていたかったのではないかということが言える。このことを以前のエントリーで『TEXHNOLYZE』と比較しながら考えた。でたぶん『FREEDOM』でも同じことがいえると思う。管理側は地球がもはや死の星ではなく、そこで貧しいながらも人々が生きていたということを知っていた。管理側はまた人々が争って破滅の危機が訪れてしまうことをおそれて実態を隠し、地球はすでに死に絶えたと人々に教えた。実は月は地球を植民星にしていて、地球人たちを非人道的に搾取しているとかだったらその事実を隠そうとするのはわかる。しかし「また争ってしまうかもしれないから」って…。そういうことのために法というものがあるのだと思うが。法の観点が欠如しているということはこの作家の必然的な特徴なのかなと思う。というのは、これらの物語は可能性と善意によって支えられているからだ。いってみれば管理側と主人公の対立は善意のすれ違いに過ぎなかった。また『Ergo Proxy』においてロムドは人々の生存の可能性を与えたいたが、それではロムドの外部において生存が不可能であったかというと、本質的にはそうではない。だから最終的にはロムドがなくてもよい(この点において『TEXHNOLYZE』と鋭く対立する)。そして佐藤はラジオ(『佐藤大のプラマイゼロ』第04回)で最近のアニメに対して漏らしていた不満が、彼の信頼する善意についていくばくか説明する。彼によれば、最近のアニメはなにをするにも複雑な理由が要る。人を殺すにしても、ロボットひとつ動かすにしてもなんだかよくわからない理由が必要となる。その時彼は『未来少年コナン』と『ど根性ガエル』を引き合いに出していたが(こういうことを説明するのに適切な例だったかどうかは疑問だが)、要するに昔の作品においては面倒くさい動機づけなどなくても人は行動するし、そうすることで登場人物たちは能動的に振る舞うことができた。とはいえ何をやってもいいというわけではない。そこには子供たちの悪しき振る舞いをただす人が必ずいる。佐藤は「げんこつ一発」と表現していたが、そういったげんこつ一発で子供は学び、成長する。しかしこういったことがらが可能であるためには、その「げんこつ」が正しいものであるということが前提にならねばならない。そういった「げんこつ」の正しさに対しての信頼がなければげんこつをした人は直ちに暴力となり、子供は自らの行為の善悪を判定することなどできまい。つまり佐藤が望むのはこういったシステムへの信頼であるといえるのではないだろうか。しかし僕にいわせれば信頼や可能性に依存するシステムとは単に不完全なシステムに過ぎない。そしてこのことが『Ergo Proxy』や『FREEDOM』に対して感じた不満と関連しているのだろう。