作画崩壊についての元も子もない話

久しぶりに自分のエントリーに対するブックマークを確認していたら、「作画崩壊」について議論がおこっていたようなので、ちょっと読んでみた。

アニメの作画のはなし - だいの闇鍋食堂はてな店
作画の乱れについて言及すること - 雑記
そんなに「作画」「作画」言わなくても・・・。 - さよならストレンジャー・ザン・パラダイス

ほかにも関連エントリーがあるかもしれない。僕も以前関係するエントリーを書いたことがあるので、ちょっと興味をもって見た。

まあ基本的には立場はふたつで、「作画崩壊」と呼ばれているものを重視するかしないか。もちろんエントリーを細かく見てみればこんな分類は乱暴なのだが、いずれにしても僕が見た限りではこのふたつの立場を両極とした線分の中にみな位置づけられてしまうのかなと感じた。言い換えればその他の視点がないのではないかと。正直言ってこういった対立はあまり生産的な感じはしない。それは両者の立場とも前提を共有していないようで共有しているからだ。共有していないようで、というのは人それぞれ「作画崩壊」になるものについての考え方が違うからだ。共有している、というのは、にもかかわらず「作画崩壊」なるものがある、という点において両者とも同意しているように見えるからだ。僕は以前のエントリーでこの問題について書いたときは、この両者の立場のうちどちらにも与しないように気をつけた。というか気をつけるも何もどちらも意味があるように思えなかったのでそういう立場には立てなかった。そこで考えたのは、ではなぜこういった作画崩壊についての言説が生まれてきたのか、ということだ。一言で言えば受容する側が作品の単位をどうするかによってそもそも作品そのもの輪郭が異なることによるのではないかという仮説を考えた。今回はもうちょっと違う観点から同じことを考えたいのだが、もっと元も子もない話になると思う。僕はここで議論されている方々と比べて、あるいは一般的にもかなり知識がない方なので、どうしても話が形式的なものになってしまうが、ことを整理するのにそちらの方が意外と有効かなと考えている。

結論から言ってしまうと、「作画崩壊」の問題というのは事実性の問題でしかないのではないかということだ。つまりある作品についてある時期に作画崩壊があると言われているから作画崩壊があるのであって、それは根源的なレヴェルでは作品固有の問題としてあるのではないと。まあ実は前回のエントリーでもそういうことが言いたかったのだが、まあよい。要するに作品の問題と言説の問題は別で、「作画崩壊」なるものはどう考えても言説の問題でしかないのではないかということだ。どういうことかというと、単純化して言えばふたつの立場は語る対象は同じであっても異なる言説の秩序の中に身を置いていて、おそらくそれぞれ別の真実を分有している。真実を分有している以上どちらかが完全に間違っているとは言えない。根本的に両者を対立せしめているのは、おそらくある種の倫理、というかある問題に対してどういう対処をするべきなのかという点なのだと思う。なんつーか自由主義社会主義みたいなもので*1、マーケットの中でクオリティの高いものをふるいにかけることで市場自体を活性化させようとする態度*2と、そこで働く労働環境や労働者の立場を守り向上させることで全体的な底上げを望む態度と。おそらくどちらも抽象的な意味で「質の高さ」を望んでいるということは言えると思う。問題はその方法論ではないかと思う。つまりこういった対立の方が本質的で、その対象となる「作画崩壊」というものについては、今回たまたまそれが対象となっているだけで、その対象がなくなったとしても対立自体はなくならないだろう。

事実性とは恣意性である。つまりある現象があることとそれが語られることは直接的で因果的な関係によって結ばれてはいない。むしろそれが語られることによって(つまり恣意的にだ)それがあるとされる。その意味で「作画崩壊」を例えばニコニコ動画などで糾弾する人たちに対して「お前らたまたまだめなアニメ見ただけだろ」とその恣意性を指摘したとしても、それに対する反論として大昔の作品の「作画崩壊」を指摘する態度もいってみれば同じ穴の狢だ。

すごく大雑把にいってしまえば、そしてよりラディカルにいえば、僕の考えとしては、「クオリティ」なるものを語るという行為は必然的にそして不可避的にこの恣意性を看過してしまうだろう*3。僕自身はこのブログでも、そういった「クオリティ」なるものについては語らないようにしてきた。その理由は第一に「クオリティ」なるものが何なのかわからないということもあるのだが、何よりもより問題なのはその「クオリティ」を判定する基準の方が問題だと思っているからだ。それについてはかつてのエントリー(『絵の上手さの話』)で書いたとおりだ。僕が読む限り「作画崩壊」について語る人たちは、それにかかわった人たちを批判するのであれ、擁護するのであれ、そういった基準そのものの問題を看過しているように見える。言い方を変えれば「作画崩壊」の(言説化の)恣意性を看過しているということだ。このことは作画だけではなく、演出(『演出の良し悪しの話』)でも脚本の面でも同様だ。

*1:とくにid:y_arimさんはtwitterや日記を拝見する限り政治的に左な傾向がありそうなので。

*2:この観点からすればid:angmarさんがおっしゃるように過去のクオリティがどうだったかということはあまり問題にならない。むしろ市場が成熟していない状態だからこそ低いクオリティが維持されていたということならば、「作画崩壊」なるものは市場の未成熟の証となるだろう。要はいいわけでしかないということだ。

*3:教養主義というのはこういった恣意性を事実性として認めてしまうということにあるのだと思う。