サンライズ『FREEDOM』

結論から言ってしまえば、「あれ?」とか思ってしまった。あまりよくない意味で。たしかに、CGで絵を動かしているからなのかもしれないが、何というか、人形浄瑠璃的な動きが気になったこともあったが(『警察戦車隊 TANK S.W.A.T.』ほどではなかったが)、その点については7話をみる頃には慣れていた。そうではなくてやはり脚本面なのかな、この問題は。

そこにはいる前に前提として一般的なことを言っておくと、アニメ(およびマンガそしてSF)においては自由の問題というのがテーマになりやすい。もっといえば個人の生存とその不可能性との対峙の問題というか。その理由は僕にはすでに与えられていて、不可能性を与えるものの全貌を描くことができるからだ。現実的にはそれは不可能だろう。もし描こうとすればそれは多分カフカ的にならざるを得ない。つまりよくわからないものであると。いずれにしてもアニメにおいてはこういったいわば近代性に関わる問題がしばしば扱われるのであって、そのため僕はこのブログでそういったテーマについて見てきた。具体的には『スクラップド・プリンセス』『Heat Guy J』『TEXHNOLYZE』『Ergo Proxy』『THE ビッグオー』などだ。僕はどうしてもカフカ的な結論にシンパシーを感じてしまうので、『Heat Guy J』『THE ビッグオー』的な決断(決別)、『TEXHNOLYZE』的なニヒリズムに共感を覚える。小中千昭好きなのかな。ぶっちゃけていえば我々の生存を困難にするものなど存在しないし、そんなものとは別の次元で生きていくしかない。『スクラップド・プリンセス』に関しては、認識としては正しいと思うが、チキンな僕にとってはあまりにも英雄的すぎた。

で『FREEDOM』についてだが、シリーズ構成は佐藤大とある。wikiとかをみると彼が主導的な立場で物語を作ったのは『交響詩編エウレカセブン』『Ergo Proxy』とこれになるのかな。『Ergo Proxy』ではチーフライター、あとのふたつではシリーズ構成とある。一応この三つについてはすべて見たが、僕はこの作家についてはいくばくかの不信感を持っていて(もちろんこの作品の構想自体を彼のものといえると仮定しての話だが)、彼は上述のような生存を困難にするような不可能性というものについての思考を怠っているのではないかと感じている。例えば『スクラップド・プリンセス』においてはそういった不可能性を破壊し、自由を手に入れたかのようだが、よくわからないものが攻めてくるかもしれないという不安は決してなくならない。その意味でいうと、主人公のパシフィカの側も、敵対していたピースメーカーたちも同じようにこの不安を持っていた。アルトー的にいえば受刑者も執行人も同様にしたがわなければならない残酷さ、必然性は決して失われることがない。だから最後のパシフィカの決断が英雄的であったのだ。『Ergo Proxy』においては、人々の生存を可能にするものはロムドというドーム上の都市だ。逆に言えば、ロムドが人々の生存を可能にするものだということで、同時に人々の何らかの自由を奪うものであるということにもなる。まあ端的に言えば外に出られないと。このことは『THE ビッグオー』にもいえる。だからこそ、主人公は自らの記憶を捨ててまでこの街を守ろうとしたのだ。人々に生存の可能性を与える街とは同時に人々を縛り、ある種の不可能性も与えるのだ。そしてこの作品においてはその不可能性とは記憶の欠如というかたちで現れていた。なので『Ergo Proxy』の最後において崩壊した街を捨ててリルが旅立つところを見ておいおいとか思った。いやもちろんリルは免疫をつけたから街をでても大丈夫だというのはわかる。じゃあなんでほかの人は街をでなかったのか? もっと正確にいえばなぜドームの外を開拓しようとしなかったのか? まあいずれにしてもそういった可能性/不可能性の問題というのが実は問われていたかったのではないかということが言える。このことを以前のエントリーで『TEXHNOLYZE』と比較しながら考えた。でたぶん『FREEDOM』でも同じことがいえると思う。管理側は地球がもはや死の星ではなく、そこで貧しいながらも人々が生きていたということを知っていた。管理側はまた人々が争って破滅の危機が訪れてしまうことをおそれて実態を隠し、地球はすでに死に絶えたと人々に教えた。実は月は地球を植民星にしていて、地球人たちを非人道的に搾取しているとかだったらその事実を隠そうとするのはわかる。しかし「また争ってしまうかもしれないから」って…。そういうことのために法というものがあるのだと思うが。法の観点が欠如しているということはこの作家の必然的な特徴なのかなと思う。というのは、これらの物語は可能性と善意によって支えられているからだ。いってみれば管理側と主人公の対立は善意のすれ違いに過ぎなかった。また『Ergo Proxy』においてロムドは人々の生存の可能性を与えたいたが、それではロムドの外部において生存が不可能であったかというと、本質的にはそうではない。だから最終的にはロムドがなくてもよい(この点において『TEXHNOLYZE』と鋭く対立する)。そして佐藤はラジオ(『佐藤大のプラマイゼロ』第04回)で最近のアニメに対して漏らしていた不満が、彼の信頼する善意についていくばくか説明する。彼によれば、最近のアニメはなにをするにも複雑な理由が要る。人を殺すにしても、ロボットひとつ動かすにしてもなんだかよくわからない理由が必要となる。その時彼は『未来少年コナン』と『ど根性ガエル』を引き合いに出していたが(こういうことを説明するのに適切な例だったかどうかは疑問だが)、要するに昔の作品においては面倒くさい動機づけなどなくても人は行動するし、そうすることで登場人物たちは能動的に振る舞うことができた。とはいえ何をやってもいいというわけではない。そこには子供たちの悪しき振る舞いをただす人が必ずいる。佐藤は「げんこつ一発」と表現していたが、そういったげんこつ一発で子供は学び、成長する。しかしこういったことがらが可能であるためには、その「げんこつ」が正しいものであるということが前提にならねばならない。そういった「げんこつ」の正しさに対しての信頼がなければげんこつをした人は直ちに暴力となり、子供は自らの行為の善悪を判定することなどできまい。つまり佐藤が望むのはこういったシステムへの信頼であるといえるのではないだろうか。しかし僕にいわせれば信頼や可能性に依存するシステムとは単に不完全なシステムに過ぎない。そしてこのことが『Ergo Proxy』や『FREEDOM』に対して感じた不満と関連しているのだろう。