京都アニメーション『CLANNAD AFTER STORY』

今更ながら『CLANNAD AFTER STORY』を見た。多分『とらドラ!』と並んで反響があったアニメだと思うが、具体的にどういう反響なのかはあまり追っていないので分からない。ただスカイプでコンタクトのところに「うしおおおおおおおおお」とか書いている人がいて、最初「うしお」って何のことか分からなかったが、まあたぶん、これも反響の一つだとは思う。

そういえばノベルゲーム原作の作品を見たのは久しぶりかもしれない。スクイズ以来かな? いずれにしても正直あまり興味をもって見てこなかったことは事実だ。その理由はおそらく大分前に新海誠作品について書いたこと(新海誠『秒速5センチメートル』)と関連しているかもしれない。
どういうことかというと、あるタイプの物語(僕自身はすべての物語、といってもいい気がするが)は喪失を描いているが、それは大雑把にふたつに分類できて、失うことを描くもの、そして失ってしまったことを描くもののふたつだ。前者においては物語は喪失の瞬間にクライマックスを迎え、後者では過去の喪失の瞬間に対する気付きに向けて物語が進展する。前者において喪失を味わう者は未来を思い(あの人のいないセカイ)、後者では喪失にもかかわらず過ごしてきた過去を思う。僕の考えでは後者の方が絶望的で、悲しい。
喪失とは主観的なもので、ボールペンのキャップをなくして深い喪失感を味わう人もいればそうでない人もいる。その意味では前者の物語のタイプにおいてはある人が喪失感を味わうであろう出来事に向けて展開するので、その人がそれで喪失感を味わうかどうかは厳密にいえば保証されてはない。だからそれほど絶望的ではない。端的にいえば未来において乗り越える可能性が与えられる。しかし後者の場合はまったくそうではない。なぜならば問題なのは出来事ではなく、喪失を味わった出来事に対する想起だからだ。後者のタイプは常に過去を指し示す。もちろん未来においてそういった感情を乗り越えることはできるかもしれない。しかし問題なのはそういった認識にたどり着いてしまったという事実なのであって、その点は消去できない。だから後者の方がより悲劇的だといえると思う。

で、僕がノベルゲーム原作の作品にあまり興味を持てないのは、そういった喪失に対する気付きに向けて語られる物語があまりないということと関連しているのかなと思った。いわゆるバッドエンドというものはある。しかしそれは場合によっては残酷なエンディングを迎えるということに過ぎなく、喪失に向かって物語が進むといういってみれば『世界の中心で愛を叫ぶ』タイプ(見たことないけど)とさして変わらない。その意味でいうと以前ここでも言及した『D.C.』はかなりラディカルだったと思う(『ZEXCS/feel.『ダ・カーポ』とAIC A.S.T.A.『ガン×ソード』 』)。つまりつまりそもそも喪失なんてないといったのだから。喪失が主観的なもので、客観的な事実と必然的な関係を結んでいない以上、それは間違いではない。その意味では興味深かったのだが…。

で、id:hazumaさんの エントリー を見て、これはノベルゲームに本質的なことがらなのかなあとか思った。こうある:

渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。不幸な人生にも幸福な人生が可能性の芽としては畳み込まれており、またその逆もある、というのがマルチエンディング・ノベルゲームが提示する世界観なのであり、それは原理的に、「主人公が努力すれば幸せを掴むことができる」という通常の物語とは異質なものです。
したがって、CLANNAD AFTER STORYの最終2話で、朋也がある一方の人生から別の一方の人生に突然にジャンプしたとしても、それはまったく原作の世界観を損なわないとぼくは考えます。そして逆に、放映直後のエントリでも書いたように、あの最終話が単なるハッピーエンドだとも思わない。というのも、あの最終話を観たあとでも、ぼくたちは渚と汐が死んだ「別の世界」を忘れてはならないはずであり、そしてその忘却不可能性はアニメ版でもしっかり演出されていたと思うからです。汐はCLANNADでは、救われていると同時に救われていない。そんな両義性こそが、美少女ゲームの魅力の核心ではないでしょうか。

そもそも僕はノベルゲームをやったことないのでよくわかってなかったが、マルチエンディングじゃないものもあったんだな、ひぐらしとか。でもひぐらしでも少なくともアニメ版を見る限りにおいては上の指摘は当てはまるだろう。しかしそうなると決定的に喪失への気づきに向かう物語は実現されない。なぜならばその気付きとは喪失にもかかわらず過ごしてきた過去が一気に色あせてしまう瞬間であり、そういった過去が無味乾燥で、何ものでもなくなってしまうことに対する想起だからだ。それに対してノベルゲームにおいてはそういった過去すらも何かに資してしまう。id:hazumaさんが指摘する両義性とは、喪失という事実も失われないですむという可能性に資するという両者の逆説的な関係だと思う(その逆も)。つまり無駄なものは何もない、ということなのかなと思った。
僕が惹かれるのはまさにこの無駄なものであって、失ってしまったことへ向かう物語とは自らの過去が一瞬にして無駄なものになってしまうという悲劇だった。『CLANNAD AFTER STORY』は最終話まではそういうことを描こうとしていたのかなあと思ったが、そうではなかったようなのでいささかがっかりした。