『神魂合体ゴーダンナー!!』、『機動戦士ガンダムSEED』ほか

実はこの作品は何度もチャレンジしたが一話でことごとく挫折していた。しかしロボットアニメに関して僕の視聴経験はやや偏っている感じがしたのでがんばってみてみた。ちなみにその前に種シリーズ(『機動戦士ガンダムSEED』『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』『機動戦士ガンダムSEED C.E.73 STARGAZER』)をみたのでそれとの比較したりしなかったりしながら見たが、なんというか意外と見てみるとそんなに厳しくはなかった。まあ食わず嫌いというやつか。というわけでそのことが妥当かどうかわからないが両者を比較してみる。

おそらく種シリーズを見た直後だから気になったことなのだろうが、両者の一番の違いは負の感情をどう扱うかということなのだという気がした。『神魂合体ゴーダンナー!!』では嫉妬やら怒りやら憎しみやらといった感情があまり悪い感情だとは、正確にいえば排除しなければいけないものだとはみなされていない。むしろ敵に立ち向かうための原動力のようなものとされているようだ。何しろ前期のエンディングテーマからしてそうだ。この辺りは種シリーズと鋭く対立する。むしろ種では例えば復讐心にともなう憎しみの感情は悪い、排除すべき感情として退けられる。さすがにそういった考え方には与することはできない。被害者感情を無視して死刑廃止を訴える人たちのようだ。感情を持つということは事実の問題であって、感情に関する問題は事後的な問題でなければいけない。つまりそういった感情を持ってしまった後にどうすればいいか、という問題で、もってしまった感情をなかったことにしろということはできない。もってしまった感情を事後的に裁くというのはそれこそ「良心の疚しさ」を生むことにしかならない。ぶっちゃけていえば、アスランにしてもキラにしても、ほかの人にはない強大な力を持っているからそんなこといえるんだろ、という感じがする。この場合の力とは直接的にはガンダムだしコーディネーターとしての能力ということになるのだが、抽象的にいうと出来事の前に何らかの働きかけをできる能力ということになる。何らかの過ちを起こす、後悔する、しかし彼らは未来を見ることができる。どういうことかというと、未来に起こる出来事に対して備える(予見する必要はない)力を持っている。しかし(特に悪い)感情にとらえられている者はそういった未来を指向することができない。感情という過去がその者に取り憑いているからだ。形式的にいうとこうなる。つまり出来事をさかいにして物事の継起が「前」と「後」に分断される。ある感情にとらえられる、とはこの出来事の「後」の現象だ。そしてこのこと、つまり感情を持ってしまうことが消去不可能なことがらだとすれば、「負の感情を持ってはいけない」という種シリーズ的な当為はいまだ生起せざる来るべき出来事についていわれなければならない。もちろん出来事は無限に連鎖する。したがって負の感情をもってしまったことを教訓としたこの当為は「次の出来事」のために用意される。つまり『機動戦士ガンダムSEED』に対する『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』だ。このような当為を背負うことによってキラは成長し、アスランの誤りを正すことができた。しかしみんながキラのようではない。むしろ彼は例外的だ。端的にいうとこういった当為にしたがって振る舞うことが大局に大きな影響力を及ぼすということに自覚的であり、実際にそのとおりであるという点において例外的だ。ガンダムはほとんどどの作品においても敵に敗れることのないスーパーロボットだ、という意見をネット上で見かけたことがあるが、そういった無敵さがキラの「ただしさ」を保証する。逆に言えばそうではない凡人達にとってはそんな「ただしさ」は何の役にも立たない。キラが何を言おうと彼らは時には悪い感情に支配されるし、それによってあらそう。それは愚かさではない。なぜならそういった凡人達の振る舞いの愚かさ、弱さがガンダムの強さを相対的に際立たせ、さらにキラが「ただしく」振る舞うことを結果的に可能にするからだ。
なんかよくわかんなくなってきたが、いいたかったことは、種シリーズにおける負の感情の否定(そういえば富野ガンダムではそういったことは見られなかった気がする)はふたつのことを条件としている。つまり出来事の連鎖によって主人公が学ぶということ。もうひとつはガンダムの圧倒的な強さだ。ところでここでの出来事の連鎖とは何か。それは「敵」と「味方」との関係性だ。ほとんどのガンダムTVシリーズでは、ある敵味方の組み合わせがひとつの出来事を形成しており、その組み合わせが変わると次の出来事に移る。たぶんガンダムTVシリーズ(富野、非富野かかわらずだが、富野ガンダムの方がその傾向が強いかな)の特徴はこの敵味方の非自明性だ。味方だと思っていたものが次の瞬間敵になる、その逆もしかり。登場人物が相手の陣営に移ったり戻ったりするのは過去の出来事によって引き起こされる学びの結果であり、次の出来事のための学びの契機でもある。

こういったことが『神魂合体ゴーダンナー!!』ではまったく見られない。僕のもつ「スーパーロボット」の印象は、むしろ負の感情はいけない、というか負の感情なんて簡単に乗り越えられる、みたいなことを描く、といったものだったが、むしろ「そんな気持ちになっちゃうよね」みたいな感じだった。そして時にはそういった負の感情も力になると。真に力となるのは愛だ、とこの作品は言うがその表現はさまざまだ。そしてその中に嫉妬やらも含まれる。感情の問題に否定はない。否定しようがない。したがってそこには学びはない。そこにあるのは反復だけだ。おそらくその理由は敵が自明だということにあると思う。病気のためにパイロットがおかしくなって味方に襲いかかるということはあってもそれは「おかしくなった味方」であって敵ではない。まあ敵はたぶん知性のない生命体なのでまあガンダムシリーズと比較するのすらあほらしいのだが*1、この自明性は以前見た『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』(関連エントリー)にも共通しており、これらの作品はガンダムやそれに近接する作品と鋭く対立していると思う。そしてこれはさんざん言ってきたことだが、この敵の自明性は「燃え」と深く関係する。敵が敵であることが疑い得ないとすれば、迷うことなくていに戦いを挑むことができる。その迷いのなさが熱さを生む。ガンダムシリーズにはこの種の燃えはない。正確にいえば燃えることはできる。しかしそれは「迷いにもかかわらず」燃えるのであって、迷いがないわけではない。コミュニケーションは常に迷いを誘う可能性をもっており、もし「燃え」というものがスーパーロボットを規定しているとするならば(それは原因ではなく結果であろうから僕自身はそれに100%与することはないが)、どれだけそのロボットが作品内で無敵であろうとも種シリーズにおけるガンダムゴーダンナーとでは同じ意味でスーパーロボット的だとはいい得ないだろう。まあそんなこと言ってる人はいないか。

*1:いま『シムーン』を見ているが、そこではたぶん敵が人間であるにもかかわらずいまのところ(第16話まで見た)敵味方ははっきり別れている。たぶんそれはまず第一に喋っている言葉が違うからだ。敵国の人が喋っている言葉は主人公達の耳にはどうやら意味不明に聞こえるらしくそのように演出されており、また両国の言葉を解するものはこの段階までにごくごく一握りしか登場しておらず、その人達ももう死んでしまった。まあこのことについては僕は富野作品関連ですでに述べたが、こういった敵味方の非自明性というものはコミュニケーションの可能性に依拠しているということができると思う。