今更ながら『ハンター×ハンター』連載再開を記念して

ハンター×ハンター』が連載再開だそうで。
かなり乗り遅れた感があるが、まあよい。前回は十回ぐらいの連載だったが、今度はどのくらい連載するのだろうか。今度は書きだめしているというより、普通の意味での連載ということになるのだろうか。いずれにしても富樫にはがんばってもらいたい。
僕も全国にゴマンといるファンのうちの一人だが、何が好きなのかということについてちょっと考える。このことについては別の場所でちょっと書いたことがあって、それと重なることが多いが、まあよい。
まず第一にジャンプの戦闘マンガの伝統というのがあると思う。ちなみに僕がジャンプを読み出したのは、そんなに記憶が定かではないが、車田正美でいうと『男坂』が連載していたことではないだろうか。もしこれが正しいとすると、読み始めた時期がかなり特定できる。それぐらい連載期間が短かったと記憶している。あとなんだろうな、『ガクエン情報部H.I.P』とかあったと思う。両方とも内容は全くおぼえていない。ちなみに『風魔の小次郎』は単行本で死ぬほど読んで聖剣とかも実際につくろうとしたが。まあそれはともかく、ジャンプの戦闘マンガというと、努力、友情、勇気とか能力インフレとかいうことがよくいわれるが、最も重要なのは能力の可視性ではないか、ということだった。つまり戦わなくてもこいつがどれだけ強いか、ということがわかると。「どれだけ」強いか、ということが重要だ。つまり能力の可視性ということに付随して、能力を測る基準をみなが共有しているということだ。それが『ドラゴンボール』であればスカウターによって検出される戦闘力だし、『キン肉マン』であれば超人強度だ。たしか『ワンピース』でもそういうのがちょっとだけでてきたと思う。
そういう流れにある意味で異議を唱えたのが『ジョジョの奇妙な冒険』だとおもう。これが最初かどうかわからないが、この影響力は大きかったろう。何をしたか。まず能力(の源)を外在化した。スタンドだ。これはまず能力インフレ対策といえる。なぜならスタンドがなにしたって本人は別に強くなることはないからだ。まあ本人も危険はおかしているだろうし常識的な範囲で成長はするだろうが。そして何よりも共通の尺度としての「強さ」というものはあまり意味をなさないということが重要だ。おそらく重要なのは強さよりも利便性だ。各スタンドは得手不得手があり、スタンドの持ち主はその得手不得手をふまえた上で戦略を練る必要がでてくる。したがってスタンド使い同士で戦闘する場合、スタンドと戦闘の場との相性を考える必要がでてくる。あえてここで強さという言葉を使うなら、それはそのスタンドと戦闘の場の特殊性との関数として事後的にでてくるものだろう。この作品があらかじめスタンドというものを想定して連載開始されたかはわからないが(多分それに関するインタビューとかあるのだろうし、確か著者のあとがきだか前書きだかでかなり先まで構想を固めて連載を始めたといっていたような気がしたが)、いずれにしても最初は『北斗の拳』の亜流のような感じだったが(その印象のおかげで連載当時はチェックしていなかった)、スタンドのおかげでそれまでのジャンプ的戦闘マンガとははっきりと一線を画す作品になったと思う。
この観点からすると、『ハンター×ハンター』は『ジョジョ』の提示した問題を引き継いだといえると思う。この作品にはスタンドはない。かわりにあるのは念だ。両者の大きな違いは、前者においては新しいスタンドにその都度新しいアイディアを詰め込んでいくという形でキャラ作りをしていったと思うが、後者においては念というのは各個人に備わっているという以前にまず一つのシステムだ。したがって念を操るものは念について学ばなければならない。そして学ぶ過程で念で何ができて何ができないかということを知る。したがって登場人物や読者にとって念のシステムというものは帰納的に明らかになる。『DEATH NOTE』についても同様のことがいえる。変なノートがある。使い方は最小限しかわからない。したがっていろいろ実験してみなければならない。本当は近くにいるやつがほとんど知っているのだがおもしろがって教えてくれない。そして実験をしながらバトルに相当するものを行ってゆく。
二つの作品を読んだ印象としては、『ジョジョ』ではいかに興味深いスタンドを見せるか、ということが問題であったのに対し、『ハンター×ハンター』では念そのものがどのように利用されるか、そしてそれが社会やあるゲームの中でどのように位置づけられているか、ということが問題になっていたような気がする。念とは個人の能力といったものに限定されず、むしろ社会の共通の富のようなものだ。そもそもハンターという職業自体がその富を社会に還元する職業ということができる。
で、このように念というものは個人の能力というよりもなんというか研究対象のようなものなわけだが、その事実のために念とは客観化可能な何ものかとなる。つまりそれは測ることができる。それが意味することは念能力の強さというものは客観的に測定可能だということだ。そのため上で示したジャンプ的戦闘マンガの特徴である能力の可視性というものはこの作品では引き継がれているのだ。これが『ジョジョ』との大きな違いだといえると思う。いってみれば、能力の可視性の結果としての能力インフレをいかに回避するかという問題を引き受けた『ジョジョ』を引き継いだ『ハンター×ハンター』はぐるっと回って能力インフレの問題に再びぶつかったかのようだ。

多分僕はこういった『ハンター×ハンター』的な思考をアニメとかにも求めているのだと思う。念にあたるものがあるアニメにとってはロボットだったりロボットを可能にする謎の原理だったりするわけだ。で『ハンター×ハンター』的な思考とは何かというと、その念が作品内で表現される世界において整合性のある形で位置づけていこうという思考だ。ボマーが手から放つ爆弾がなぜ自分の手を爆発させないか、という問いはその観点からすると非常に重要になる。結局こういう問いに答えることによってゴンに勝機が見いだされるわけだが、それだけではなく、念という能力が無限の可能性をもつものではないということを示している。超自然的な力ではない、ということもできるかもしれない。その場合の自然的、とは念の能力を含めて自然というものがこの作品では構成されているということだ。ちなみに現時点での僕の疑問はクラピカのジャッジメントチェーンについてだ。クロロはこの鎖で心臓を縛られるが、彼が念能力を発動させるか幻影旅団の団員と接触すると鎖が発動して心臓をつぶされてしまう。旅団編の最後でクロロは元旅団員のヒソカ接触する。「元」旅団員なので接触しても大丈夫、ということだが、これはどういうことなのか。二つの可能性がある。この人は旅団員ではないとクロロ自身が認識した時点でセーフなのか、あるいは実際に旅団でなければ大丈夫なのか。この二つの違いは多分大きい。というのは、前者であれば旅団員は「旅団を脱退した」とクロロに告げれば事実上誰でも接触可能だし、確か団長自身の承認がなくても入団が可能だったはずなので、クロロを殺そうと思ったものが他の現役旅団を倒し旅団員となってクロロがその者の入団を知らないうちに接触すれば難なく殺せるからだ。まあクロロの行く末が今後描かれるかわからないが、もし描かれるならこの辺りも問題になるかもしれない。

こういった思考を僕はアニメ作品にも望んでいるわけだが、やっぱりアニメだと見た目の鮮やかさとか動きとかが重視されるだろうから、そのあたりは裏設定としてはあるかもしれないがはっきりとは示されないかもしれない。結構前だが見た『Witch Hunter Robin』もそんな感じだったような気がする。最初の方はウィッチの能力が一般社会には隠され(あるいは公然の秘密となっ)ていて、その上で主人公たちが秘密裏に操作するわけだが、最後の方になるとそういうことはおかまいなしで派手に戦うようになる。こういうのは僕にとっては作品内で描かれる社会におけるウィッチあるいはその能力の位置づけが厳密でないように見えてしまうのだ。まあ話としては結構面白かったのだが。その点ある種のロボットアニメはそういう考察が展開されることがあるので見てしまう。