作画崩壊とか

最近『サムライ7』をみた。でちょっと思ったことがあるのだが、『サムライ7』の話ではなく、もうちょっと一般的な話。気になったのは第07話。まあなんというか、『創聖のアクエリオン』の有名な第19話のようなものだ。つまり他の放送回と作画が異なり、場合によっては「作画崩壊」と見なされているということだ。まあそれが作画崩壊かどうかを判断する必要はあまりないように思えるが、僕が気になったのは作画というよりもむしろキャラの動きだ。『サムライ7』第07話も『創聖のアクエリオン』第19話も、なんというか説明が難しいのだが、ある点から別の点に移動するのに、直線的に移動するのではなくて、一本の糸をその両点に結びつけてその糸の線にしたがって移動するといった感じなんだが、伝わるのだろうか…。AA的に説明すると、「人人人人」こういう動き。だめだ全然説明できん…orz。まあそれはともかく『サムライ7』では遊郭で踊りを披露するシーンがあるのだが、踊りとかの表現にはいいのかなあと思った。あと酔っぱらったりしてふらふら歩くときとか。
作画崩壊っていう現象は何かと考えるに、たぶんシリーズ全体を通して確認できる「平均的な」キャラと比べての造形のズレなんだと思う。そしておそらくその「平均」はオープニングやエンディングに登場するキャラが示してくれているのだと思う。上記二つの放送回も、またむしろ別の意味で有名な『天元突破グレンラガン』第04回の小林治回も、出来云々以前にオープニングと本編の違いが結構インパクトを与えたのではないだろうか。もちろんこのことはクオリティの低下による作画崩壊がないということではない。僕自身はよくわからないのでクオリティ云々いう資格はないが、少なくとも例えばキャベツとかでスタッフ側が確か公式に謝罪したんじゃなかったっけ? そういう事態がある以上、作画崩壊を単に印象に違いだと断ずるのはやっぱりちょっと違うような気もする。また伝説の『ガンドレス』の例もあるし、TVシリーズだけに作画崩壊があるというわけでもないだろう(まあ『ガンドレス』は作画崩壊だけではなく色彩崩壊(というのか?)とかいろいろあったが)。
でいいたいことは作画崩壊作画崩壊とわめくのはしょうもない、ということではなくて(まあそう思わないこともないが)見てる側とつくってる側で「作品」の単位が違うのかなということだ。僕自身もシリーズ全体を作品の単位として見てしまう傾向があるが、多分それは見る側の平均的な見方ではないだろうか。それに対していわゆる「作画オタ」なる人種は多分ちょっと違う見方をしていて、「ここからここまでが誰々の仕事」といった感じで見ているのではないだろうか。でつくる側がどうかというと、まあ僕の知識は『アニメーション制作進行くろみちゃん』と『妄想代理人』のアニメ制作回で得たものぐらいしかないのだが、どちらにも共通しているのは、一回(25分ぐらい?)のアニメをつくるのにいっぱいいっぱいで、現場ではシリーズ全体を見通す余裕はなさそうだということだ。また放送回によってスタッフが全く違うことがあり、当然ある回のスタッフがやりたいこととシリーズ構成の人や監督がねらっているものとの違いがでてくることもあるだろう。おそらく『創聖のアクエリオン』第19話などはむしろその違いを逆にねらってうつのみや理を起用したのだろう。

作画崩壊、あるいはそれを巡る言説については多分二つのことがいえると思う。まず第一に多くの作画崩壊に関する議論は印象論によっているなということ。このことはもう一つのことが原因となっていると思う。つまり他のジャンルと比べても「作品」および「作者」の輪郭があまりはっきりしていないことによって、異なる作品の輪郭を想定している者との間で作画崩壊と見えたりそう見えなかったりすることがあるということ。でこのことは本質的には解決しない。つまりその輪郭を確定することは原理的には不可能だ。そのことは一見作者なるものの輪郭がもともはっきりしていると思われる文学において証明されたように思われる。例えばシュルレアリストたちの手によるいくつかの作品。あるいはベケットとの有名なエピソードをもつジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』。違う観点からもいえる。マラルメは『イジチュール(『イギトゥル』っていうのか?)』などでいかに偶然に抗うことが困難かを示した。偶然はさいころを振る者とでた目との間に介入する。つまり、わたしとわたしが書いたものとの間に介入するといえるのだ。有り体に言えば思考とその表現は本質的に必然的な関係を結ばない。表現は思考の同一性を保証しない。作者の同一性も保証しない。その意味でいうと何が作画崩壊で何がそうでないかを確定する基準は本質的には存在しない。

まあかなり詮無い方向へ脱線してしまったが、いいたかったことは作品の輪郭はとりわけアニメではかなり相対的なものであって、映画とかマンガとかと比べても同意が得られていないのではないかということだ。各放送回の演出家や絵コンテ担当者にとっては、シリーズ全体のこととか考えていたら自分のやりたいことが制限されてしまうと考えるかもしれないし、またシリーズ全体を考えるべき監督にとってみたら、そうやって好き勝手やってもらった方がかえっていいと考えることもあるだろう。まあそのあたりぶっちゃけていえば人それぞれだろうが、例えば押井守あたりがラジオでしゃべっていた気がするが、高橋良輔なんかはむしろ文芸的な方面に興味があって、各回の映像面においてはかなり放任らしい(そういえば『アニメ夜話』の『装甲騎兵ボトムズ』の回でスタッフの人が各回のキャラデザの統一なんて気にしていなかったとかいっていた。まあ当時はみなそうだったのかもしれないが)。したがって厳密にいうと、アニメ作品における共通にあり得る現象としての作画崩壊について語るならば、まずアニメの単位(何を一作品とするか)を確定しなければならないが、そのためにはおそらくジャーナリスティックな知識が必要だし、それは作品ごと、制作者ごとで異なるだろう。例えばあるアニメの第03回と比べて第04回がひどい作画崩壊に陥っていると見ている側が判断したとしても、もしかしたらつくる側は「いやそれは違う作品だし」とか思っている可能性だってなくはない。そして他方で個々の放送回に自由度をもたせるよりもシリーズ全体の構成を重視する制作会社もでてくるだろう。それが多分京都アニメーションだったりシャフトだったりするのではないだろうか。嫌らしい言い方をすれば、これらの制作会社が評価されているのは、これらの制作会社が評価されやすいからだ。そしてこの評価されやすさというものは制作する側が視聴する側とアニメの単位というか輪郭を共有している、あるいは共有しようとしているということにあるのではないか。もちろん作画崩壊ってのは作り手の倫理の問題ともかかわってくるから、キャベツみたいにやっちゃったなと思った作り手は自らそのことを表明して謝罪することはあるだろう。しかしいうまでもなく作品そのものの問題と作り手の倫理の問題は全く別物だ。つまり倫理の問題とは別に作品の質として作画崩壊なる現象をとらえるとき、実は印象として語るのは非常に困難で、それどころかそれを語る視聴者の多くが客観化されうる質として語っているという点で誤謬に陥っている気がする。まあ2chやニコニコで語られているのはネタなのかもしれないが。