サンライズ『∀ガンダム』

この『∀ガンダム』で復活後の三部作と呼ばれているものを全部見たことになる。ところで僕の∀ガンダム初体験といえばなんといってもこれだ。多分ニコニコで一番長い動画だと思う。このおかげで次回予告をとばせなくなった。
まあそんなことはいいのだが、よく考えたらガンダムシリーズでTV版を通してみたのは実はこれが初めてだった。ストーリー的にそれまでの富野ガンダムとつながりはないかなと思ってみたが、モビルスーツとかはそれまでのシリーズにでてきたものらしく、それらを見ていたらもっと楽しめたかもしれない。特にカプルの原型は『機動戦士ガンダムZZ』にでていたらしい。カプルの体育座りはすばらしかった。カプルにはもっと活躍してほしかった。もちろん敵をたくさんやっつけるという意味ではなく。ところでローラだからOPは西城秀樹だったのだろうか。
これまたどうでもいいことだった。とはいえ作品の中身についてそんなにいう言葉を持っていなかったりする。まあ面白かった。演説のシーンではさすがに泣いた。ニコニコとかアニメ関係のブログとかを見ても結構評判が良さそうで、富野作品の中でも人気が高い方なのかなとか思った。ただ例のひげのガンダムだけはいい評価を与えている人は少ないように見えるが。まあいいと思おうがそうでなかろうが、語る言葉がないときはしょうがないと思うのだが、一つだけ引っかかることがあった。
最初は地球原住民と月の住民、ムーンレイスとの後者の地球入植に関する対立を軸に話が進んでゆく。両方の陣営には和平を望む者もいれば徹底抗戦しようとする者もいる。おそらく他の富野作品と同じように、地球の側にも月の側にも一定の正しさはあるだろう。地球の側からしたら領土をいきなりよそ者に奪われたら面白くないだろうし、月の人にしてみたら元々地球人だしその権利はあると思っている、と。
しかし最後には、なんというか、目的を共有するもの同士でかたまった感がある。つまり、地球人、ムーンレイスの区別なく、和平を望むもの、破壊を望むもので別れたというような。まあかなり記憶が定かでないのではっきりとはいえないが、ラスボス的な扱いだったギム・ギンガナムはなんか完全な悪役のようになってしまって、戦うことに対する義のようなものが見いだせないように感じた。そうすることで地球対月という点に関してはハッピーエンドを迎えることができたということは看過できないような気がする。もちろん別の観点からはハッピーエンドではないのだろうが。
まあギンガナムが完全な悪役であるかどうかという点に関しては多分異論もあるのだろう。僕の疑わしい理解力でそう見えたということにすぎないので。しかしより重要なことは、人間の生存を条件づけるものの強さだ。この場合は地球と月という所属。月と地球、仲良くしましょうというのは、第三者からしてみたらいいことかもしれないが、当事者にとってみたら、短期的な不利益を被る場合が多い。だから抵抗がある。単に感情的に嫌だといっているわけではない(感情的な不安定も短期的な不利益の一部だろうから、単純に排除するわけにはいかないが)。いずれにしてもこういったことが人を所属なり自分が与する集団なりに縛り付けることになるのだ。こういった桎梏から自由になることは容易ではない。所属の桎梏を逃れて自由にそこから逃れることのできるものは限られたものにすぎない。しかし共通の敵が現れた場合はその限りではない。つまり両陣営にともに不利益をもたらす存在が現れた場合だ。この作品はこの道を辿ったように思う。問題はハッピーエンドであるかないかということよりも、それをもたらす前提だ。たとえば『伝説巨神イデオン』におけるある種のディスコミュニケーションも、そういった所属による桎梏の問題を無視することはできないだろう。なんとうか、復活後の三作品(まあ『リーンの翼』もそうなのだろうか)を見てみて、そういった「生存を条件づけるもの」の強大さ、あるいは不可避性という問題が看過されてしまっているのではないかと思う。以前からこのブログで書いているように、僕はこういった自我とその外部といった問題により興味を持っているので、どうしてもそのように見てしまう。というわけでそろそろ富野作品は『機動戦士ガンダム』かなと思う。

アートランド、アートミック、AIC『メガゾーン23』

OVAは短くてよい…、と思ったら一本あたりは結構長くてきつかったがなんとか見た。ウィキペディアの『メガゾーン23』の項目を見ると『超時空要塞マクロス』に対する否定的な回答であると説明されている。これは今までマクロス関連でここで述べてきたことと直接に関係している。つまり、いかに戦わないか、という問いとの関連だ。『超時空要塞マクロス』(特に劇場版)では歌で戦いが終わったが、そんなわけないだろうと。まあ至極当然だ。そんなわけでその辺りについて両者を比較しながら考えてみるのもいいだろう。スタッフもかなり重複しているし、おそらくこれを見た多くの人も『超時空要塞マクロス』を頭に思い浮かべながら見たのではないだろうか。
三部作なのだが三作でそれぞれスタッフが異なり、一作目と二作目ではキャラデザ自体がだいぶ異なるので、同じキャラでも全然違って同一の作品と見なしていいものか考えてしまうが、しかし内容的にはうまいことつながって、特に第二作で物語的には終わってもいいのではないかと素人考えでは思ってしまうが、第三作もかなり面白かった。ただ三作目ではやたら動きがカクカクしているのが気になったが。

話の内容はといえば、舞台はバブルっぽい時代の東京で、バイクを乗り回している主人公がひょんなことでごっついバイクに乗ることになる。それが実はロボットに変形する兵器で、そのためになぞの組織に追われることになる。で、いろいろ逃げたり戦ったりしている間に、実はこの東京だと思っていたところは宇宙から侵略してきた敵から身を守るために地球から脱出したでっかい宇宙船の中だったということが明らかになる。で、主人公が乗っているバイクはその宇宙船を動かしているコンピューターに直結しているとのことだ。でっかい宇宙船に街があるというのは明らかにマクロスだし、可変戦闘機ならぬ可変バイク(ガーランド)もあり、三角関係ではないが恋愛的要素もあり、そして何よりも歌だ。この作品でもアイドル歌手は登場して、歌も歌っているのだが、じつは宇宙船を動かしているコンピューターによってつくられた人工知能で、実体はない。このことはリン・ミンメイがとりわけ劇場版では停戦をもたらすのに対して、この作品では歌を歌っている者は戦争をもたらしている張本人そのものであるという点で対照的だ。
そして最も大きな違いは、この『メガゾーン23』では主人公を含めて多くの市民たちには戦争が行われているということが知らされていないということだ。そして民間人としてそのことを知らされた数少ない者のうちの一人(あるいは唯一かもしれないが)である主人公は軍隊にはいって一緒に戦わないかと誘われる。強力な兵器である可変バイクを乗りこなす主人公なら大きな戦力になる。当たり前かもしれないが、ここで主人公には二つの選択肢がある。軍隊にはいって異星人たちと戦うか戦わないか。そしてこの選択肢は『スクラップド・プリンセス』、『TEXHNOLYZE』、『Ergo Proxy』、『Heat Guy J』などを通じて以前に何度も話題にしてきたことがらと関連する。要するに自分の存在を条件づけるものと自身との関係だ。もし自分ではない他者に条件づけられていたとき、大きな犠牲を払ってでも自立を手に入れようとするか、誰かに支配されていようとも、そのことによって得られる幸福を享受しようとするか。もちろんどちらが正しいということはない。右翼と左翼のどちらが正しいかと問うことにそんなに意味がないのと同様だ。まあそれはともかく、この作品では主人公はどちらかというと後者の選択をしたといえると思う。よくわからねえやつと戦争なんかしてられるかと。それよりも実は戦争をしいてるという秘密を知ったことで軍に友達が殺されたことで、主人公は軍に敵対心をもつようになる。ということで第01話のヤマ場は主人公と主人公を追っていた軍人との一騎打ちの場面だ。
なんでこんなことが起こるかというと、主人公はじめほとんどの市民にとって、自分たちが東京だと思っている場所が実はでっかい宇宙船で、地球はよくわからない異星人(デザルグ)に滅ぼされてしまったということを知らされていなかったからだ。ここで宇宙船について考えなければならない。そもそも宇宙船が舞台になっている場合、上記のような問いは発生し得ない。なぜなら、「生存を条件づけるもの」(つまり宇宙船)が自分(たち)の手にあろうとも、他の何ものかの手中にあるとしても、その宇宙船の外に出ることはほとんどの場合不可能だからだ。それが地球上のある国であれば、国を捨てることができる。だからこそ上の問いが有効なのだ。しかし宇宙船の場合、その外にでるということは多くの場合生存そのものを捨てることを意味する。もちろんその宇宙船の中でどういう自治が行われるかということは問題になりうる。それがまさに『無限のリヴァイアス』だ。しかし強力な外敵が襲ってきて宇宙船そのものを破壊しようというとき、上のような問いにかかずらっている暇はない。『メガゾーン23』では自分たちが生きている場自体が宇宙船であるということを知らされていなかったので、こういう問いが有効になったのだ。それに対して『超時空要塞マクロス』ではほとんどすべての人たちがどういう状況かを大まかには知っていた。すくなくとも自分たちが宇宙にいること、そして自分たちの乗っている宇宙船が攻撃を受けていることぐらいは。したがって宇宙船そのもののが無事であることがまず第一に問題となり、それが個人の自由の問題はとりあえず棚上げできた。しかしそれは単純化にすぎなく、そういった状況であっても自由の問題は常に存続するということを示したのが『無限のリヴァイアス』だった。
まあそれはともかく、形式的にいうならば、『メガゾーン23』は『超時空要塞マクロス』との差異化のため、宇宙船の中で物語が展開されているという事実を不可視化することで個人の自由の問題を前景化し得た。この問題はある種のアポリアなので解決は難しい。したがって『超時空要塞マクロス』のように平和が訪れて大団円、みんなハッピーというわけにはいかない。このことは外敵がいなくなり、地球に帰還した後の物語である第03部でも同様である。

サンライズほか『機動警察パトレイバー』OVA、TV版

以前劇場版のパトレイバーについてはちょっと書いたが、そのあとOVA、テレビシリーズ版も見て、一応一通りパトレイバーシリーズについては全部見た。ただそれを見たのも大分前なのでかなり忘れてしまっているが、これ以上忘れないためにちょっとだけ書く。
書き残しておきたいことは、テレビシリーズ、とりわけその後半のことについてだ。その前に以前にも書いた劇場版『パトレイバー』におけるリアルロボット的な問いについて。二つのことが重要だった。つまり量産可能性とすべての人による操縦可能性だ。今ある技術や資源で生産できるものである以上、この世で一つしかないロボットとかはあり得ない。舞台は警察であり、研究機関ではない。つまりすでに実践可能なものしか舞台には上がれない。また量産型である以上、ある特定の人しか操縦できないということでは使えない。この二つの要素をふまえた上で物語が進行するわけだが、このある種の縛りはパトレイバーを所有する警察側のみに課せられるわけではない。「敵」も同様にこの制限を受けるはずだ。この点を出発点として押井の「敵」なるものに対する考察が展開される。ここでの問いは、「敵の脅威とは何か」ということだ。上記二つの制限が敵の側にも課せられるわけだから、その答えが「ものすごく強いこと」であることはあり得ない。謎のテクノロジーとかオーパーツとかはあり得ない。しかしそういった「強力さ」に頼らずともより恐ろしい脅威があることを押井は知っていた。そしておそらくこのことは現実の状況とも一致しているのではないだろうか。それは一言でいって不可視性だ。このことは『ARMS』におけるガウス・ゴールがいう「最も多くの人を殺した兵器は毒だ」という言葉とも関連している。毒が脅威なのはそれが毒かどうか容易にはわからないからだ。まあそれはいいとして、こういった不可視である敵に無駄にでかいロボットはあまり役に立たない。『ARMS』ではあのジャバウォックでさえも毒には苦しめられた。まず第一に敵を可視化しなければならない。そのための捜査だ。そう考えると舞台を警察にしたということは非常に示唆的だ。こういった問いをあらかじめ問うていたかのようだ。じじつOVA版前期のヤマ場ではテロが描かれていた。テロとはまさに不可視性の脅威のことだ。
ここで問題にしたいテレビシリーズにおいては上記の劇場版で展開された問いに関連した別の問題が示されている。とりわけシリーズ終盤において。それは操縦者(野明)とロボット(アルフォンス)との関係性だ。作品を見ればすぐわかるように、野明はシリーズ当初から自らが操縦するロボットにアルフォンスと勝手に名付け、異常な愛着を示している。新型のレイバーが納入されるかもしれないというときには激しい抵抗を示した。このことにはある種の原体験、飼っていたペットが亡くなってしまったときの喪の感情が関係している。野明自身はこういった喪の感情は乗り越えなければいけないということを知っていた。なぜならば彼女の場合、こういった喪の感情は対象に対するある種の依存からきていたからだ。その意味でいうと、テレビシリーズはそういった依存を自覚しそれを乗り越えるという野明の成長の物語ということもできる。そしてその成長の跡を劇場版第二作目の野明の言葉に見ることができる。

あたし、いつまでもレイバーが好きなだけの女の子でいたくない。レイバーが好きな自分に、甘えていたくないの。

この引用は以前のエントリーでもしたのだが、こうしてみるとこの言葉はテレビシーズからの問いを引き継いだものだと考えることができる。

このように考えることができる。つまり、押井的なリアルロボット的問いは結果的には物語におけるロボットの占める位置を限りなく縮減することにつながった。しかしそれだけではない。彼は登場人物のロボットに対する依存も解消しなければいけないと考えた。「彼は」というのはちょっと正しくないだろう。テレビシリーズの脚本は押井だけではないからだ。というか押井の脚本回はあまり多くない。なのでこのプロジェクト自体が問うてきた問題だといえばいいのかもしれない。『アニメ夜話』とかを見る限り、押井は原作クラッシャー、つまり何でも押井色に染めてしまうとかいわれているらしいが、パトレイバーに関しては意外とそうではないのではないかということができると思う。OVAやテレビシリーズでとわれていた問題が正確に劇場版に引き継がれていたということができると思われるからだ。

さいごに、テレビシリーズにおける押井脚本回についてだが、まあ押井の脚本だということを前もって知っていたので色眼鏡で見てしまったのかもしれないが、やはりほかの脚本家とは違う特徴があったと思う。まず第一になぞの生物とか強力な怪物とかはでてこない。それよりも手持ちの札で何ができるかということが問題になったりする。限られた時間内でいかに榊にばれないように海に落ちたレイバーを引き上げるか(第03話)。陸の孤島で食料を確保するためにどうするか(第29話)。その意味では押井がこのプロジェクトにおいて際立っていた部分はあるのかもしれないが、劇場版だけを抜き出して考えるよりも、『パトレイバー』シリーズ全体で考える方がいろんな意味で有効かなとは思う。

声優に関するわりとどうでもいい話

わりとどうでもいい、と書いたのは『みなみけ おかわり』を見たということもあるのだが、こういうことは結構多くの人が語っているだろうからだ。何かというと、男性役の女性声優は多いけど女性役の男性声優は少ないなということだ。そういうのが得意な女性声優は何人か名前が浮かぶけど、男性声優はいるだろうか。確か以前ニコニコで石田彰がおじいちゃん、おばあちゃん、母親、妹、主人公(男)の一人五役をやっていたのをみた(聞いた)ことがあったが、それぐらいかな。テレビシリーズとかで女性役をやっている男性俳優とかいるのだろうか。まあ僕がものを知らないだけかもしれない。
これに関してはもしかしたら科学的に検証できるのかもしれない。つまり音域とかの関係で男性が女性を演じるより女性が男性を演じる方が楽だとか。まあそういうデータがあっても僕はしらないし、仮にそういうデータがあるとある意味この話が仕舞いになってしまうので、違う方面から。
「おかま」の存在があるのかなあと思う。男性が女性に近づこうとすると「女性」にたどり着く前にまず「おかま」に到着する。そう考えるとおかまの役は少なくないと思う。今ぱっと思いつくのは『アベノ橋☆魔法商店街』のバーのママ(?)とか『桜蘭高校ホスト部』のハルヒの親父とか。逆に言うと女性声優の場合「おなべ」のカテゴリーがないから男性役をやるのが容易いのかなと。
僕の勝手な印象から「おかま」なるものを定義づけると、「男性ホモセクシュアル的なものから性的指向性を排除したもの」だ。とりあえずここではこの意味で「おかま」という言葉を使う。おそらくこのおかまなるものはストレート以外の性的指向性を隠蔽するのに役立っている。つまりおかまとは男性のことを好きな男性ではなく、「おかま的な格好や振る舞いをする人」ということだ。だからストレートのおかまもいるわけだし、その点である性的指向性を示すゲイとは異なる。おかまであることはゲイであることのある種のセイフティネットとなりうるのだが、逆に言えばおかまとなり得ない人(二枚目俳優など)にはゲイであることを表明することが非常に難しい。こういう構図が女性にはないのではないか。あったら佐良直美が紅白に出場できなくなるという事態はなかったのではないか(もちろんこのことは実際に彼女が同性愛者であるかどうかは関係ない)。このような状況が同性愛者にどういう結果をもたらしているのか、つまりいいことなのか悪いことなのかは僕にはわからないが、いずれにしても、こういった条件が女性声優が男性役をやることを容易にしているのではないだろうか。つまり女性が男性を演じようとしても「おなべ」というカテゴリーを容易に通過して(そういうものは受け手の印象のカテゴリーにない、といっていいのかもしれない)、「男性」へとたどり着きやすい。しかし男性声優が女性を演じようとすると「女性」にたどり着く前に「おかま」のカテゴリーに引っかかってしまうといううことだ。
こういったことがらは個々の作品にとっては外的なことがらだ。しかし声優およびそのキャスティングというのはそういった外的な要素を考慮しないわけにはいかない。他の部分と比べてそういった外的な要素をより考慮するものだと思う。つまり受け手がどう受け取るかということをフィードバックすることでそれが演出等に反映される。
まあそれはともかく、僕はまだ見たことがないが『シムーン』では登場人物がほとんど女性声優で男性役もすべて女性が演じているらしいが、逆にすべて男性声優の作品も見てみたいが多分需要はないのだろう。

GONZO『ヴァンドレッド』『ヴァンドレッド the second stage』

Overmanキングゲイナー』と同時並行で見た『ヴァンドレッド』および『ヴァンドレッド the second stage』。GONZOって結構ロボットアニメが多いらしい。そのうちで最も有名じゃないかと僕が勝手に思っているものの一つ。なんといっても敵味方を識別するあの「都合のいい武器」が印象的だった。結構面白かったと記憶しているがなぜかあんまりその他の印象が残っていない。なぜだろう。というわけで気になったことを箇条書きで。

ロボットの合体:たしか『創聖のアクエリオン』に関するエントリーで、合体を性的な意味合いでとらえたものはほかにあるのだろうか、と問うたが、『ヴァンドレッド』がまさにそれだった。ただ違うのは、前者には明確に合体が快楽と結びついていたが、後者はそうではない。そのかわり、合体の際に実際に搭乗者同士がくっつく。一応ここでも問いを投げかけておくが、『ゲッターロボ』以来の多くの合体ロボットにおいてコックピットは別々だったと思うが、この作品ではそうではない。だからなおさら合体が性的なものを思わせるのだが、そういった作品はそれ以前にあったのだろうか。

秀才の位置づけ:この作品はある意味候補生ものの一ヴァリエーションで、このジャンルに特有の秀才タイプの登場人物がでてくるのだが、普通はこういった秀才タイプは出来の良くない主人公としばしば対立して、そしてしばしば主人公が天才的な能力を発揮して両者がコントラストを描く、といったことが多いが(『トップをねらえ!』『ジーンシャフト』など。また候補生ものではないが『創聖のアクエリオン』もそのタイプだ)、この作品にでてくる秀才タイプはそもそもロボットに乗らない。むしろ医師として後方支援に徹する。なんか知らんが全然野心がない男だ。それはこの作品が典型的な候補生ものではなく、その変形だからだ。通常の候補生ものでは数少ないポストを目指して候補生同士が争うのだが、この作品ではそもそも候補生というシステム自体が破壊されるところから物語が始まり、なおかつ主人公はそもそも候補生とは無縁の下層民だ。

なんかまだ書くべきことがあったような気がしたが、思い出したらまた書く。最近いろいろ見たのでごっちゃになってしまっている。

サテライトほか『マクロスゼロ』、『マクロスプラス』

ネット上では『マクロスF』がかなり話題になっているらしい。なんかこのクオリティでテレビシリーズやるのはかなり無理だろう、といわれるぐらい出来がよいらしい。というわけでテレビシリーズが始まる前に『超時空要塞マクロス』との間を埋めねばということでいくつか見た。残るは『マクロス7』と『マクロスダイナマイト7』かな。長い…。『マクロス II』はとりあえずおいておく。というわけで今回は二つ。しかし『マクロスゼロ』と『マクロスプラス』をまとめてあつかっていいものかどうか。まあでもどちらもある意味三角関係と可変戦闘機と歌という三種の神器はそろっている。マクロスの年代で古い方である『マクロスゼロ』を先に見たのだが、制作年はこっちの方が新しい。2003年ということは『地球少女アルジュナ』よりも後かな? ということもあってかなりエコな感じだ。『マクロスプラス』の方はもちろん河森正治がかかわってはいるだろうが、どちらかというと渡辺信一郎の初監督作品として、後の『カウボーイビバップ』との関連とかで語られる方が多いのかな。スタッフもかなり共通しているらしい。
マクロスゼロ』はマクロスが地球にやってくる前の、まだ統合政府ができていなくて統合軍と反統合軍が争っている時代、その戦争に巻き込まれた独自の信仰を持つ人たちの住む島が舞台で、主人公の戦闘機乗りがその島に漂流するところから話が始まる。で、そこに姉妹がいて、ちょっと三角関係っぽくなるが、そんなにというか全然ドロドロしていない。正直三角関係というのもはばかられるのだが。
それに対して『マクロスプラス』はどう見ても三角関係だ。というか全編痴話げんかというか。最大のヤマ場も戦闘機に乗って口喧嘩をする場面だ。
まあ年代もあると思うのだが、だんだんエコ的な問題意識が大きくなるにつれて、三角関係も影を潜めてくる。それはある意味必然的で、もし河森的な自然なるものが調和に満ちた全体を示しているのならば、三角関係などは三者の感情のすれ違い、本質的な不調和を前提としているからだ。『超時空要塞マクロス』においては三角関係と「戦わない」ということが別次元で進行していた。それはまだ調和に満ちた全体性としての自然というテーマがまだ生まれていなかったからだ。こういった自然という観点からすれば、三角関係などは非本質的なものとして退けられる。まあこの辺りは『マクロスF』を見てみたい。付言すれば、こういった自然を前提とすれば、ある場面においてアポリアにぶつかる。それは中絶の問題だ。『地球少女アルジュナ』の第09話ではまさにそれが問題になるのだが、そこでは明確に中絶に反対する立場がとられていた。母親の感情的な問題が完全に看過されることで、事態が単純化されている。そう考えると『超時空要塞マクロス』と2000年代の河森作品をつなぐものである『マクロス7』を見てみないといかんな。ほとんど同時代の『マクロスプラス』を見てみると、やはりまだエコ的な問題は出てきてないのかなとか思う。

サンライズ『Overmanキングゲイナー』

というわけでキンゲ。これで三つの富野作品(テレビシリーズ)を見たことになるが、僕は富野信者にはなれそうにないなと思う。同時に『ヴァンドレッド』を見ていたが、そっちの方はすいすい見続けられるのにこの『Overmanキングゲイナー』は最初のうちは結構見続けるのがきつかった。なぜだろう。まあ自分の好みのことなんてどうでもいいのだが、いくつか富野アニメを見て思ったことを書いてみようと思う。この作品の直後に『マクロスゼロ』『マクロスプラス』を立て続けに見たこともあってどうしても富野と河森の比較という点でこの作品を考えてしまうが、結構それも有効ではないかと思う。
まずはじめに『アニメギガ』の河森回のはなしから。彼が『超時空要塞マクロス』の製作をするにあたって、いくつかの禁じ手をつくったらしい。『機動戦士ガンダム』の成功を受けて、この作品では先行するガンダムその他のロボットアニメではやってないことをやろうと。それであの歌になったのだが、演出面でも、とりわけロボットに乗って相対した敵同士の二人が対話するといったシーンやロボットの外観を映したシーンにコクピット内部のパイロットの映像を挿入するといった演出はしてはいけないと決めたらしい。でそういう演出を禁じ手にすると結構大変らしい。そう考えると『ブレンパワード』でも『Overmanキングゲイナー』でもそういうシーンは多かった。どうなんだろう、こういった演出は富野特有のものなのだろうか。ほかのロボットアニメを思い出してもそういったシーンはあったようななかったような…。画面を切り替えてロボットの外観とコクピット内を交互に映すということは多いとは思うが。まあでも富野作品にはこういった演出は多いということは間違いないと思う。
そのことは単に演出だけの問題にとどまらない。そもそもなんでそんな演出が必要だったのか。僕の少ない視聴経験からすれば、それは対話が必要だからだ。戦闘シーンにいかに対話を挿入するか、上記の演出法はこの問いに応えたものだったと考えることができる。そう考えると『ブレンパワード』なんかは壮大な口喧嘩ではないかとも思えてくる。まるでロボットによる戦闘はそういった対話をお膳立てするものでしかないかのようだ。
そもそも富野由悠季って人は言語というものをかなり信じているというか重視しているなあという印象を受けた。まず何よりも独り言が多い。説明的というか、普通そんなこといわねえだろ、とか思うようなことを一人でも平気で言う。別に口を動かさなくて内的独白のように演出することもできただろうから、わざとやっているんだろう。僕は初期(『東京ノート』ぐらいの頃)の平田オリザのような演出法に全面的に賛成しているわけではないが、さすがにこれは平田さんもおこるだろう、とか思った。この辺りが富野作品にあんまりのめり込めなかった理由の一つではあると思う。
さて僕は以前のエントリー河森正治における言語に対する不信、懐疑といったものについて述べたが、両者の言語に対する態度はきれいに対置されるものであろうか。つまり河森の言語への不信に対して富野の言語への信頼といったように。多分これは正しくない。井荻麟名義で書いた『Overmanキングゲイナー』の主題歌の歌詞にもあるように、

愛と勇気は言葉、感じられれば力

だ。言葉だけでは何の役にも立たない。それに感覚なりなんなりが付け加わって初めてなにがしかの力となりうる。頭でわかっていただけではだめだということなのだろう。しかしこうした言葉は力を手に入れるための重要なステップになる。必要なものだといってもいい。そのように考えると、ロボットによる戦闘は最中の対話と戦闘によって引き起こされる身体的な感覚を経ることによって歌詞でいわれている「力」を得る過程であるといえるのではないだろうか。そしてその力なるものは能力とか強さといったことよりも、ある種の学びというか、成長とかかわっているのだと思う。たとえばシンシアが戦闘で実際にゲイナーを傷つけたときに得る学び、そういったものではないだろうか。ゲームをやっていただけではそれは得られない。なぜなら対話と感覚がそこにはそろっていないからだ。
対話と感覚、この二つが子供を成長させる。そしてロボットは搭乗者にこの二つをもたらすことで成長の契機を与えてくれる。少なくとも僕が見た『イデオン』『ブレンパワード』そして『Overmanキングゲイナー』においてはロボットはそのようなものとして機能している。そういうロボットにおいては「燃え」は働かない。対話は理性を駆動させ、歩みを止めるからだ。燃えている最中に対話をするものなどいない。
最も疑問に思うことは、戦争ってそういうものなのか? ということだ。ロボットを操縦している敵同士が話すことが物理的に可能か、という問題もあるが、より重要なのはそもそも戦争というものがそういった対話を許すものなのだろうか、ということだ。指揮をする者にとってみたら、対話はしばしば意志を相対化させるから(だから燃えを妨げるのだ)、その可能性はできる限り減らしたい。まあ現場の人間は何かを考えるということはあまりない方がいいだろう。また戦闘に積極的に参加していないけども巻き込まれる人がいるとすれば、そういう人が戦闘に巻き込む側と対話をする可能性はあるだろうか。おそらくない。巻き込まれるときは即座に、問答無用でそうなるだろう。つまり戦争とは対話を妨げるものではないか、と戦争を全く知らない僕などは思ってしまうわけだ。多くの人にとって、戦争には対話はない。従ってそこでは成長はないし、人は何も学ばない、学ぶことができない。だから戦争は恐ろしいものだし、なんとしても避けなければならないのだと思う。戦争で一瞬でも何かを学ぶことのできる者はごく限られている。しかし富野作品における戦争では濃密な対話、それこそ我々(というか僕)が日常生活で体験する対話よりもずっと濃密な対話が行われる。それは日々希薄な対話しか行っていない者にとっては魅力的に映るのではないだろうか。確か『アニメ夜話』で富野は、自分は一生懸命アニメで戦争反対のメッセージを送ってきたのに、今の若いもんが九条改正とかいっているのは悲しい、といった趣旨のことを言っていたと思うが、富野自身が戦争に対するある種の幻想を視聴者に植え付けていったのではないか、とか思ってしまう。
まあ別に富野作品における戦争の描き方がおかしいといいたいわけではない。そういうことを判定できる能力は僕にはない。重要なことは、彼の作品においては戦争は上述のような対話の場となっており、そういった対話をきっかけとして子供が成長する場となっているということだ。そして以前からいっているように、ロボットは成長の場である戦争に参加できるためのある種の通路として機能しているのだ。
なんか『Overmanキングゲイナー』の話はほとんどしてないな。まあでも結構面白かった。また見るかもしれない。