サンライズ『Overmanキングゲイナー』

というわけでキンゲ。これで三つの富野作品(テレビシリーズ)を見たことになるが、僕は富野信者にはなれそうにないなと思う。同時に『ヴァンドレッド』を見ていたが、そっちの方はすいすい見続けられるのにこの『Overmanキングゲイナー』は最初のうちは結構見続けるのがきつかった。なぜだろう。まあ自分の好みのことなんてどうでもいいのだが、いくつか富野アニメを見て思ったことを書いてみようと思う。この作品の直後に『マクロスゼロ』『マクロスプラス』を立て続けに見たこともあってどうしても富野と河森の比較という点でこの作品を考えてしまうが、結構それも有効ではないかと思う。
まずはじめに『アニメギガ』の河森回のはなしから。彼が『超時空要塞マクロス』の製作をするにあたって、いくつかの禁じ手をつくったらしい。『機動戦士ガンダム』の成功を受けて、この作品では先行するガンダムその他のロボットアニメではやってないことをやろうと。それであの歌になったのだが、演出面でも、とりわけロボットに乗って相対した敵同士の二人が対話するといったシーンやロボットの外観を映したシーンにコクピット内部のパイロットの映像を挿入するといった演出はしてはいけないと決めたらしい。でそういう演出を禁じ手にすると結構大変らしい。そう考えると『ブレンパワード』でも『Overmanキングゲイナー』でもそういうシーンは多かった。どうなんだろう、こういった演出は富野特有のものなのだろうか。ほかのロボットアニメを思い出してもそういったシーンはあったようななかったような…。画面を切り替えてロボットの外観とコクピット内を交互に映すということは多いとは思うが。まあでも富野作品にはこういった演出は多いということは間違いないと思う。
そのことは単に演出だけの問題にとどまらない。そもそもなんでそんな演出が必要だったのか。僕の少ない視聴経験からすれば、それは対話が必要だからだ。戦闘シーンにいかに対話を挿入するか、上記の演出法はこの問いに応えたものだったと考えることができる。そう考えると『ブレンパワード』なんかは壮大な口喧嘩ではないかとも思えてくる。まるでロボットによる戦闘はそういった対話をお膳立てするものでしかないかのようだ。
そもそも富野由悠季って人は言語というものをかなり信じているというか重視しているなあという印象を受けた。まず何よりも独り言が多い。説明的というか、普通そんなこといわねえだろ、とか思うようなことを一人でも平気で言う。別に口を動かさなくて内的独白のように演出することもできただろうから、わざとやっているんだろう。僕は初期(『東京ノート』ぐらいの頃)の平田オリザのような演出法に全面的に賛成しているわけではないが、さすがにこれは平田さんもおこるだろう、とか思った。この辺りが富野作品にあんまりのめり込めなかった理由の一つではあると思う。
さて僕は以前のエントリー河森正治における言語に対する不信、懐疑といったものについて述べたが、両者の言語に対する態度はきれいに対置されるものであろうか。つまり河森の言語への不信に対して富野の言語への信頼といったように。多分これは正しくない。井荻麟名義で書いた『Overmanキングゲイナー』の主題歌の歌詞にもあるように、

愛と勇気は言葉、感じられれば力

だ。言葉だけでは何の役にも立たない。それに感覚なりなんなりが付け加わって初めてなにがしかの力となりうる。頭でわかっていただけではだめだということなのだろう。しかしこうした言葉は力を手に入れるための重要なステップになる。必要なものだといってもいい。そのように考えると、ロボットによる戦闘は最中の対話と戦闘によって引き起こされる身体的な感覚を経ることによって歌詞でいわれている「力」を得る過程であるといえるのではないだろうか。そしてその力なるものは能力とか強さといったことよりも、ある種の学びというか、成長とかかわっているのだと思う。たとえばシンシアが戦闘で実際にゲイナーを傷つけたときに得る学び、そういったものではないだろうか。ゲームをやっていただけではそれは得られない。なぜなら対話と感覚がそこにはそろっていないからだ。
対話と感覚、この二つが子供を成長させる。そしてロボットは搭乗者にこの二つをもたらすことで成長の契機を与えてくれる。少なくとも僕が見た『イデオン』『ブレンパワード』そして『Overmanキングゲイナー』においてはロボットはそのようなものとして機能している。そういうロボットにおいては「燃え」は働かない。対話は理性を駆動させ、歩みを止めるからだ。燃えている最中に対話をするものなどいない。
最も疑問に思うことは、戦争ってそういうものなのか? ということだ。ロボットを操縦している敵同士が話すことが物理的に可能か、という問題もあるが、より重要なのはそもそも戦争というものがそういった対話を許すものなのだろうか、ということだ。指揮をする者にとってみたら、対話はしばしば意志を相対化させるから(だから燃えを妨げるのだ)、その可能性はできる限り減らしたい。まあ現場の人間は何かを考えるということはあまりない方がいいだろう。また戦闘に積極的に参加していないけども巻き込まれる人がいるとすれば、そういう人が戦闘に巻き込む側と対話をする可能性はあるだろうか。おそらくない。巻き込まれるときは即座に、問答無用でそうなるだろう。つまり戦争とは対話を妨げるものではないか、と戦争を全く知らない僕などは思ってしまうわけだ。多くの人にとって、戦争には対話はない。従ってそこでは成長はないし、人は何も学ばない、学ぶことができない。だから戦争は恐ろしいものだし、なんとしても避けなければならないのだと思う。戦争で一瞬でも何かを学ぶことのできる者はごく限られている。しかし富野作品における戦争では濃密な対話、それこそ我々(というか僕)が日常生活で体験する対話よりもずっと濃密な対話が行われる。それは日々希薄な対話しか行っていない者にとっては魅力的に映るのではないだろうか。確か『アニメ夜話』で富野は、自分は一生懸命アニメで戦争反対のメッセージを送ってきたのに、今の若いもんが九条改正とかいっているのは悲しい、といった趣旨のことを言っていたと思うが、富野自身が戦争に対するある種の幻想を視聴者に植え付けていったのではないか、とか思ってしまう。
まあ別に富野作品における戦争の描き方がおかしいといいたいわけではない。そういうことを判定できる能力は僕にはない。重要なことは、彼の作品においては戦争は上述のような対話の場となっており、そういった対話をきっかけとして子供が成長する場となっているということだ。そして以前からいっているように、ロボットは成長の場である戦争に参加できるためのある種の通路として機能しているのだ。
なんか『Overmanキングゲイナー』の話はほとんどしてないな。まあでも結構面白かった。また見るかもしれない。