サンライズ『ブレンパワード』

なんか『ブレンパワード』を見て思ったのだが、復活後の三部作を見た後にそれ以前の作品を見るのもありかと。『∀ガンダム』は年代的にそれまでの作品とつながりはないようだから、まあ見ても問題はないかと。多分昔から富野作品を見ていた人はこの作品を見て、どの点が昔と違うかとか細かくわかるだろうが、逆に新しいのを見た後に旧作を見れば同様にそういう相違を見いだすことができるかなと。ただ『リーンの翼』に関してはやはり『聖戦士ダンバイン』を見た後の方がいいのかなあとか思うのでちょっと保留。でも短いから先に見てしまうかもしれない。

まあそんなことはどうでもいいのだが、この作品、まず気になったのは演出で、やけに止め絵が多かったような気がする。特に第07話の後半でそれが顕著で、なんかもう紙芝居のようだった。これが何によるものかを問うことはあまり重要だとは思わないので問わないが、印象としては全編通してこういった止め絵の演出が見られ、終盤のクライマックスの場面でもそういった止め絵は多かったので、そういう方針だったのだとは思うが、ただ今見るとちょっと古いのではないかなと感じた。戦っているもの同士がお互いに突っ込みながらなんかいっているときはたいてい、なんというか止め絵というのか、静止画をお互いが向かっている方向にスライドさせる、といった感じの演出をすることが多いように思えた。こういう演出は出崎演出というのだろうか。
で、内容については(理解力が足りないという意味で)正直ついていけないことが多かったので、途中から各話のあらすじが書いてあるサイトを参照しながら見た。(こちら)このサイトではバロン登場回にバロンの正体について言及していたのだが(この時点では明かしていないが)、これを見るまで正体について考えてすらいなかった。なんかいきなりでてきたなあといった程度だった。その程度の理解力だ。
そういった理解力の僕が興味深かったのは、例によってストーリーの展開というよりも、その前提というかそれを支えるものだ。そしてこの点に関してはこの作品以外で僕が見た唯一の富野作品のテレビシリーズである『伝説巨神イデオン』と比較するのが意外といいのではないかと思っている。といってもほかに選択肢がないだけなので、それが妥当かどうかは後々ほかのも見て判断したい。なぜ『イデオン』と比較するのがいいかと思ったかというと、両者とも謎の大きな力があって、それを巡って物語が進行しているように思えるからだ。『イデオン』ではもちろんイデが、『ブレンパワード』ではオーガニック・エナジーなるものがそれにあたり、どちらも全容がほとんど明らかになっていない謎の力だ。そしてどちらの場合でもその力を巡ってある種の覇権争いのようなものが行われるわけであるが、それらの力はただ単に人間たちの所有の対象である(と人間たちが考えていた)だけでなく、主体的に人間の精神に影響を及ぼすことである種の意志があるかのようなものでもあった。ただもちろん重大な違いがあって、それはなんというか、そういった力の超越性にかかわっているといえると思う。『イデオン』においては確かに力を巡って人々は争うのだが、結局はその力は人々の手に負えるものではなく、ああいう結末になってしまう。一方、『ブレンパワード』ではオーガニック・エナジーは手に負える、負えないというよりもそのエナジーは多分すべての生物が何かしら持ち合わせているものだ。つまり前者においては力は人間たちにとって外在的なものであるのに対し、後者においてはそれは人間たち自身も持ち合わせているであろうものである。
イデオンにしてもブレン(やオルファン)にしても本質的にはどうして動くか、という原理については解明されていない。しかしその意味は全く異なる。前者はいってみれば人智を超えた何ものかによって動いている。要はそれは決して知り得ないことだ。それに対してブレンについては、それは生態が明らかになっていないということにすぎない。クマムシみたいなものだ。そうすることでこの作品ではロボット、およびそれを動かす原理が人知の及ぶ領域へと引き下げられたということができる。もちろんあらゆるリアルロボットも同様なのだが、この作品で重要なことは、ロボットをある種の生命体ととらえることで、上述の力に人間たちも直接的に関与できることになったということだ。ロボットはもはや単なる手段や道具ではない。とはいえ神様が与えたものというわけでもない(生命は神によって創造されたとしないのであれば)。
生命体としてのロボット(アニメの領域ではこの表現が矛盾であるとは思わない)はどの辺りにその起源を求められるのだろうか。すぐには思いつかないが、まあエヴァもそれに含まれるのかもしれない。いずれにしてもこの作品においてはそのことは重要で、そこに人間との間の交流の可能性が見いだせる。そしてその交流はしばしば言語的なコミュニケーションによってなされる。そのためここではロボットをうまいこと操縦するために必要なのは、例えば乗り物に乗るための訓練でも、動物に行うような調教でもなく、子供に与えるような教育だ。そして生命体である以上、それは必ず誕生するものである。この作品の中ではブレンもそうだがその他の登場人物の誕生の瞬間やそれに関する回想(誕生日など)がかなり意識的に繰り返されている。ただし一つ例外があって、それが宇都宮比馬だ。彼女だけはなぜか自らの誕生に関することがらにあまりかかわることがなく、また親子の問題も抱えていないかのようだ。彼女は常に(オルファンに対してさえも)「お姉ちゃん」であって、子でもましてや親でもない。その意味では、この作品には二つの中心があって、一つは謎の生命体であるオルファンで、もう一つはこの(主人公なので当たり前といえば当たり前だが)比馬だ。彼女にはなぜか葛藤も迷いもない。ほかの登場人物はそういったものに苛まれているのと対照的だ。
なんというか、富野作品というとロボットとドロドロの人間関係というイメージがあるのだが、この作品ではこの両者がいわば有機的(?)につながっているという印象を受けた。人間たちもほとんどが親子関係でもめているが、実はブレンやグランチャーも親子関係でもめているということができる。ほかの作品ではどうなのだろうか。