サンライズ『Z.O.E. Dolores, i』『Z.O.E 2167 IDOLO』

Z.O.E. Dolores, i』。『Z.O.E 2167 IDOLO』とともに。
SoltyRei』に引き続きある意味「おっさんと少女」もの。ウィキペディアを見るとものすごい話にように見えるが、意外とまとまっている気がして面白かった。ちなみにウィキの記述がこれ↓

▪ 「主人公のもとに無邪気な美少女が転がり込む」
▪ 「ダメな父親が家族の絆を取り戻そうとする」
▪ 「死んだはずの妻からの伝言を受けた主人公が、妻を捜す」
▪ 「主人公が巨大ロボットに偶然乗り込む」
▪ 「一匹狼が大きな陰謀に巻き込まれる」
などのありがちな話を一纏めにし、
▪ 「一匹狼の運び屋をやっている初老のダメ親父が、家族の絆を取り戻そうと帰郷する途中、死んだはずの妻が建造した謎の巨大ロボットを入手。そのロボットには少女のAIがインストールされていて、「おじさま」と懐かれてしまう。そして謎の組織と当局に追われ、家族ぐるみで逃亡し、妻を捜しながら「少女」と共に戦い、巨大な陰謀に挑む。」
という、空前絶後のストーリーになった作品。

つまりこの場合「少女」とはドロレスなる巨大ロボットのことだ。別に『SoltyRei』のように少女の外観をもっているわけではない。普通にロボットだ。ちなみにこのドロレスを演じるのが桑島法子で、ちょうど『機動戦艦ナデシコ』を見た直後だったので、同じ桑島法子演じるユリカとのギャップがすごかった。
この作品の一番の特徴は、ロボットに自律性と自我があるということだ。いきなり前のエントリーで書いたことに反してしまうが、まあよい。ブックマークで囚人022さんにご指摘をいただいたのだが、SFの文脈ではロボットといえば搭乗型よりも自律型のものが主らしい。僕はSFの知識は全くないが、まあそうなのだろうという予想はつく。というのは、搭乗型のロボットというのは多分搭乗している映像があってなんぼだからだ。「SFの文脈」って要は小説の話だと思う(SFについて語る人はそういうメディアの問題についてはどう考えているのだろう)。つまり搭乗型のロボットをメインと考える考え方はアニメ特有のものなのだろう。さらにいうと、ハードSFの文脈からいったら多分搭乗型ロボットというのは突っ込みどころが多いのだろうし、そういうツッコミの言説をいわゆるオタクたちが享受していたという事実があるのだと思う。
まあそんなわけで、なぜ自律型は僕の考えるロボットアニメのテーマから外されたかというと、僕の考えるロボットとは手段であって、他者ではないからだ。あるミッションを遂行するにあたってロボットを使用する場合、もしそれが手段であれば必要なのは訓練であるが、それが他者ならば必要になるのは教育だ。そんなもん一緒だ、って考え方もあるのだろうが、僕はそうではない。なぜならばこのことはあらゆる人が操作できる可能性にかかわってくるからだ。ロボットに自我があるならば乗り手を選ぶだろう。そしてロボットが自律しているなら、そのミッションを遂行するのはロボットであって、直接的には命令を下しているものではない。そうなると僕がこのブログで比較的こだわってきた手段としてのロボットの位置づけ、そしてそのことによる不可能性の問題が成立しなくなってしまうからだ。ロボットアニメはロボットの搭乗者が何かをする物語であり、そして何かができない物語なのだ。しかし自律型ロボットはそもそも乗り手を必要とするのだろうか。この作品ではまさにそのことが疑問だった。自律型なのになぜかコクピットがある。ロボットであるドロレスは乗り手がいなくてもかってに動いたし、補給も自ら行っていた。ただ一つ意義があるとすれば、とりわけ戦闘時はロボットの中が一番安全だということだ。じじつ戦闘時は搭乗者である主人公は全然活躍していない感じがした。そしてしばしば搭乗者はドロレスの中に避難していた。

このロボットはもとから自我があったというわけではなく、後から人工知能を植え付けられたらしい。一応その理由も示されているようだ。要はあらかじめものすごく攻撃的で破壊的なプログラムがインプットされていて、それが実行されないために自我を植え付け、そのヤバいプログラムをいわば無意識へと抑圧したということらしい。だから、極限状態になるとドロレスとしての意識は失われて、そのヤバいプログラムが現れる。つまり暴走する。詳しいことはよくわからないが、そもそもそのプログラム自体を消去すればよかったんじゃないの? とか思うが、まあ結果的にはドロレスがそのプログラムを完全に制御できるようになるから、終わりよければすべてよし、という感じだが、それでも一つ問題は起こる。つまり、そもそもドロレスが悪いやつだったらどうするんだということだ。確か公式サイトでの説明では、そのヤバいプログラムを発現させないために、ドロレス自身はいわば何も知らない状態、要は赤ん坊の状態(なのに言語能力だけはある)に初期設定したということだが、だとすれば思考のパターンや(あるとすれば)感情は教育によって得られるということになる。すると初めて(だと思う)出会った人がドロレスが「おじさま」と呼ぶ主人公だったからよかったものの、誰か他の人、例えば主人公に送られる途中でドロレスが犯罪者によって奪われたとしたらどうするのか。何がいいたいかというと、ヤバいプログラムがあってそれを隠蔽するために自我を植え付けるということは結構丸投げな処置で、最悪の場合そのプログラムが発現してなおかつスタンドアローンということになりかねない。
形式的にいうと、まず強力で破壊的な衝動、欲望といってもいいかもしれない、そういったものがまずある。そしてそのあとにその欲望を隠蔽する自我がインストールされる。そしてその欲望は無意識へと封じられる。最初ドロレスはその衝動の強さ、に恐れおののくが、次第にその衝動を馴致することになる。まあそうなのだが、僕としては自我と衝動のトポロジーというか、両者の関係性をもっと突き詰めてほしかった。これはアニメとは関係ない僕自身の興味関心なのだが、自我の内面性とは何か、といった問いを提示してほしかったなと。
ある意味でいうと、押井版攻殻機動隊はそういう問いをたてていたのだと思う。いうまでもなく内面とは物理的な外部に対する内部ではない。客観的に検証し得ないいわば形而上学的なものだ。ではそういったものを表現するのにどうしたらいいか。おそらく押井の解決法は、自我をネットに接続可能なものだったり、電脳化できるものと考えるということだった。そうすることによって自我は純粋に主観的なものではなくなる。そして自我は「広大なネットの海を泳ぐ」存在となる。ではその存在はいかなるものか、ということを考えたときに、『攻殻機動隊』と『イノセンス』でちょっとありようが異なる。前者では自我の核(ゴースト)は記憶であった。記憶が失われるということは自我が失われるということに等しい(ゴミ収集車のおっちゃんとか)。しかし『イノセンス』では、確かバトーの台詞で、9課を離れた大佐は身体も記憶もすべて国家に返さなければならない、残るのはゴーストだけだ、というようなものがあったと思う。つまり記憶さえも自我の本質とは関係ないものとなったのだ。より強度に形而上学的なものになったといえる。この変化はある意味でヨーロッパに心理学の歴史の流れ(精神分析の誕生)と重なる部分があって面白いのだが、まあこういったものを突き詰めると、視聴者置いてきぼりになりがちなので、テレビシリーズではやりづらいだろう。それはともかく、ロボットが自我をもつとなると、そういった意識の問題に絶対にぶつかるだろう。他方で、手段としてのロボット、つまり、意識も自我もなく、(不測の事態をのぞいて)その行動が完全に操縦者に依拠するようなロボットは行動主義的だ。つまり、操縦者がしかじかのアクションをすると必ずロボットがこれこれのアクションをする、こういった行為の連鎖によってミッションが組み立てられることになる。操縦者がロボットについてどう思っているかとか、複数の操縦者が相互にどういう印象もっているかとか全く関係ない。『攻殻機動隊 SAC』にならっていえば、チームプレイなど存在せず、個々のスタンドプレーの結果としてのチームプレイしかない、ということだ。つまり信頼というメンバー相互の内面的なつながりではなく、必要なのはスタンドプレーをまとめあげる組織力が重要だということだ。そう考えると『攻殻機動隊』は押井版と神山版で全く異なることがわかる。前者は自我の内面性をいかに表現するか(もちろんこれは感情をどうやって表現するか、ということと全く関係ない)ということが中心的な問題だったと思う。その解決法は外部(ネットの広大な海)に接続する、といったものだった。それは言い換えれば内面の外在化だ。そして神山版ではその外在化をふまえた上で、ミッションとその達成を主眼におく。そしてさらに付け加えると、押井がなぜ『パトレイバー』シリーズから『攻殻機動隊』へ移ったかという点についても、この文脈で理解できるのかもしれない。つまり押井的なロボットアニメでは内面性は問題にできない。ロボットを操縦するということは極端な話内面性を消去(したことに)することに他ならない。したがって内面性を問題にするにあたってロボットは捨てなければならない。こういった考え方はロボットがある種内面性(あるいはその表現)の謂いである『エヴァ』と対極に位置するだろう。

このように考えてゆくと、僕のロボットアニメに関する嗜好は内面性の扱いと関連しているのかなあと思う。僕がリアルロボットだなと考えているものは、まず第一にロボットを扱う原理だったりそれを管理する組織だったりするものに感情や意識などを含めた内面性を導入しないものなのかなと思ってきた。なんか『Z.O.E. Dolores, i』について書こうとしたが、脱線しまくってしまった。まあよい。