GONZO、AIC『SoltyRei』

GONZOの制作作品には評価の高いものとそうでないもののばらつきが大きいらしく、ニコニコとかでしばしば「よいGONZO」と「悪いGONZO」という表現をみかける。この『SoltyRei』は前者だと思う。まあAICとの共同制作だから、純粋にGONZOの作品とはいえないんかもしれないが。いずれにしても面白かった。アニメの中で一大ジャンルを形作っている(と僕が勝手に考えている)「オヤジと少女もの」だ。「一大ジャンル」とかいっても僕が知っているのは以前見た『コヨーテラグタイムショー』と最近見た『Z.O.E. Dolores, i』ぐらいしか知らないが。後者についてはいずれ何か書くと思う。
まあ広義のロボットアニメには分類されるのだろう。主人公の「少女」ソルティはロボットだ。アンドロイドというべきか。しかし搭乗型のロボットもでてこなくはない。人型ロボット(人の形、という意味というよりも人と同じぐらいの大きさ、という意味合いで)と搭乗型ロボットの大きな違いは、行為の主体がどこにあるかということだ。つまり誰が動かしているのか。搭乗型ロボットは当然搭乗者が操縦する。それに対して前者は自分で動く。ここで一つ問題が出てくる。何を基準に動くかということだ。兵器に限らなくとも、さすがにスタンドアローンというわけにはいかない。暴走するというリスクを何らかのかたちで回避しなければいけないからだ。そこで多くのアニメにおいて(まあ『ドラえもん』は別かな)人につくられた人型ロボットは何かしら目的を持っている。目的合理性にそって行動することをプログラムされることで、無秩序な行為をすることを防ぐ。たとえば『Ergo Proxy』のピノはコンピューターウイルスに感染する、つまり病気になることによってそういった目的を失い、人間とほとんど区別なく振る舞うことができるようになった。ロボット(およびそれを製作する側)にとってみればそれは欠陥だ。この作品においてはどうか。ソルティはある種の記憶喪失に陥っている。つまりプログラムされたであろう目的を忘れている。これが明らかになるべき謎となり、その謎が明らかになるという物語の一つの軸がある。
でその目的が何であるかって話なのだが、物語の舞台となっていた場所は実は地球ではなく、みな生存環境とはなり得なくなった地球を捨て、異星に移民してきたのだった。そのことを人々は全く知らず物語終盤まで普通に生きてきた。何かこうものすごい既視感にとらわれるのだが、まあそういうことだ。で、その既視感のとおり、基本的に構造は『メガゾーン23』と同様だといえると思う。つまり、自分たちの生存の場の本質が不可視である。そしてソルティを犠牲にしてみんなを救うか、あるいはソルティを守るかという誤った問いがある。誤った、というのは、ソルティが犠牲にならない限りみんなやられちゃうのだからそんな二者択一はあり得ないからだ(もちろん「本当にやられちゃうのか」という問いは残る)。しかし主人公のおっさんであるロイにとってはソルティは娘のようなものだし、そもそも今いる場が地球じゃないということ自体直前に知らされたことで実感がないだろう。このように生存の場が不可視化されていることによって偽の問いが立ち上がるという点においては『メガゾーン23』と非常によく似ている。しかしこの問いを抱えているのはロイだけであり、ほかの登場人物にとってはそんな問いはない。もうなんというかしょうがない、という感じだ。まあ当然だ。どっちにしろソルティは死ぬ(破壊される)からだ。
まあそんなわけで、僕はこの作品に『メガゾーン23』的な構造を見て取ったのだが、それは相当に抽象化しての話だ。当たり前だがいわゆる物語内容という観点からすれば全然違う。

面白い作品だったと思う。よく考えたらGONZO作品については僕は「よいGONZO」にしかであってないと思う。こうなるとちょっと「悪いGONZO」なるものも見てみたいとは思う。世間的には『HELLSING』あたりなのだろうか。