今敏:妄想などありはしない

パプリカ』『千年女優』を続けてみた。ついでに『アニメ夜話』の『千年女優』の回、『アニメギガ』の今敏ゲストの回も見た。これで今敏が主体的に制作した作品、『パーフェクトブルー』『東京ゴッドファーザーズ』『妄想代理人』とすべて見たことになる。この三つはかなり前に見たのでかなり忘れている部分が多い。だがこれを機に自分なりにまとめてみるのがいいのかなと。

今敏作品についてよくいわれることは、「虚構と現実の混淆」だと思う。おそらくこれに当てはまりにくいのは『東京ゴッドファーザーズ』ぐらいではないだろうか。僕としてはこの作品が一番面白かったと感じているのだが。まあそれはともかく、本人も『アニメギガ』とかを見る限り自覚的に原作を選んだり脚本を書いたりしているようなので、虚構と現実ということを出発点として作品群を捉えてみるのがいいのかもしれない。

これらの作品を見て思うのは、意外と筋を捉えやすいということだ。たとえば『千年女優』においては場面が次々と展開してゆき、『蜘蛛巣城』的なシーンになったりホームドラマのようになったり、宇宙服を着て月面らしきところを歩くシーンになったりするが、基本的にある男の人を探しているという点においては一貫しており、これらの場面転換が筋を混乱させるということはあまりない。言い換えれば物語の展開と「虚構と現実の混淆」はべつの次元に位置づけられており、一方が他方の領域を侵犯することはない。

だとすると、今見ている映像が虚構に属するものか現実のものかと問うことはそれほど意味のあることではなくなるということになる。その意味では『パーフェクトブルー』はまだ萌芽的な作品にすぎなかったということができる。この作品においては「これが誰の妄想か」という問いが重要なものであった。たとえば推理小説のような謎解きの物語におけるように、妄想はそれの主体である誰かに従属し、その事実から出発して、様々な細事が決定されているように思われる。要は演繹しているのだ。このようにして、虚構と現実の区別に関してある程度の整合性が認められる。

だが以降の作品に関してはそのような整合性への配慮はあまり見られなくなるように思える。それを一番示しているのは『妄想代理人』だろう。いわゆる推理小説のように物語を追っていた僕としてははっきりいって見終わった瞬間はがっかりしてしまったが、とにかくこの作品は妄想と現実の「常識的な」区別を放棄している。「常識的な」といったのは、妄想が現実に直接的に影響を及ぼすということは常識的にあり得ないからだ。あり得るのは妄想にかられた人が現実に影響を及ぼすということでしかない(『パーフェクトブルー』)。

こういう発想はどこからやってくるのだろう。まず妄想とはなんだろうか。たとえばある人が被害妄想に襲われて宇宙人が自分をさらうと信じているとする。その人にとっては宇宙人は見えているのかもしれない。しかしほかの人にとってはそんなものは見えない。場合によっては被害妄想にとらわれた当人にも宇宙人は見えていないかもしれない(というより本人にとって見えているかどうかは問題でないことが多いだろう)。つまりこの場合の宇宙人が妄想であるのはそれが見えないからだ。

誰にとってか? 精神医学の専門家ではない我々にとってはそれは「健常者にとって」といえば足りる。しかしここではアニメについて語らなければならない。たとえば『パプリカ』でしばしば見かけるシーン、電化製品や奇妙な格好をした人たちがにぎやかにパレードをするシーン。それは画面上で表現され、「見える」。我々視聴者にとってだ。もちろん映像が誰かの心象風景であったり、特定の登場人物の特殊な視点であったりするための演出上のさまざまな決まり事はあるだろう。映像がどんな規約のもとで表現されていようとも、終始一貫して視聴者が見る映像であるという事実からは逃れることができない。今敏にとってこの当たり前のような事実はきわめて重い。彼の作品はこの事実とある意味で共犯関係にあるとすらいえる。この共犯関係についてはもうちょっとあとで述べるが、このような観点から見るといえることが一つある。それはすべては可視的だということだ。より正確に言うならば不可視のものは表現できない。もちろん不可視のものを表現する手段、決まり事は存在するだろう。しかしすべての表現がそうであるように、アニメも表現の内容だけを伝えることはできない。あらゆる表現は表現の内容と表現の手段を同時に伝えざるを得ない。つまり誰かの「妄想」を伝えるのに、「これは誰かの妄想ですよ」という表現を可能にする決まり事も同時に伝えてしまうのだ。それは視聴者の観点からすれば存在を欠いたものの表現ではなく、存在に何かを付け加えたものの表現だ。したがって妄想、虚構が純粋な不可視性の謂いであるならば、アニメにおいて妄想などありはしない。すべては存在し、可視的だ。

映像はつねに視聴者に向いている。しかも全面的に。画面のある一部だけが視聴者に何かを訴えかけているわけでは決してない。すべては何かを示し、意味を持つ。ここに今敏の表現というか意味に対する確固とした信頼を見てとることができる。『アニメギガ』での本人の言によれば背景すら演技しなければならない。その例として考えられるのは『東京ゴッドファーザーズ』における背景の建物である。僕が見た時は全く気づかなかったが、背景の建物や電柱などが顔みたいに見えるように作画されている。そしてその顔の表情がその場面に登場している人たちの感情を代弁していたりする。どうやらあの細かい背景の書き込みはそういう信頼からきているようだ。

すべては何かを意味し、その存在を明示する。不在はありはしない。一般に我々が虚構だと思っているものもいったんアニメによって表現されれば満たされた存在を示すことになる。そして物語はこの存在の充溢を前提として展開する。偽りの不在は決して物語を犯すことはない。