GAINAX『王立宇宙軍 オネアミスの翼』

フリクリ』も見たし『グレンラガン』も盛り上がっているのでGAINAXがからんでいるものをもっと見ようかなあと思ってみたのがこれ。例によってついでに『アニメ夜話』の『王立宇宙軍』の回も見た。

ウィキペディアによればGAINAXというのはこの作品を制作するためだけに作られた会社らしいが、この作品で借金をつくってしまったために発表後に会社をたたむことができなくなってしまい現在に至る、とある。この記述だけではわからないが、そもそもこんな作品をつくって本当にペイできると思っていたのだろうか。まあつくる側はともかくスポンサーとなった側、企画を受け入れた側はどう思っていたのだろう。まあ『アニメ夜話』によれば直前に同じような話のハリウッド映画が公開されていてそれが企画が通るきっかけになったということで作品外の状況も後押ししたのだろうが、どう考えてもこれで採算をとれると考えるのはおかしい。

「こんな作品」といったのは、作品がダメだというのではなく、金かかり過ぎだろう、と素人目には思えたからだ。これまた『アニメ夜話』の岡田斗司夫の証言によれば、制作費は諸々含めて5億を超えたらしい。20年ぐらい前だということ、そもそもほとんど素人(というかアマチュア)の集団だということからしてもこれは破格なのではないだろうか。僕はまだ80年代のアニメはほとんど見ていないが、現在『超時空要塞マクロス』のテレビシリーズを見ていて、それしか比較対象がないのであえて比べてみるとかなり作画の緻密さにおいて差があるように見える。当然『王立宇宙軍』の方が緻密ということだ。発表年でいえば両者は5年ぐらいの開きがあるが、単純に新しい作品である、というだけではなく、やはり投資したお金と時間の差があるのではないだろうか。

まあそれはともかく、作品の感想としては正直そんなに面白いとは思わなかった。『アニメ夜話』はニコニコで見たのだが、そこでの書き込みを見ると大絶賛、という感じだった(まあそうじゃない人は見ないのかもしれないが)。氷川竜介のコーナーでいろいろどこがすごいのかということについては説明してくれたが、そういう点については初見の時はほとんど目がいってなかった。僕にはアニメを見る資質がないのかもしれない。

で、どうしてそんなにのめり込めなかったかということを想像してみるに、一つには宗教に関することがらがあると思う。人間は罪深く、絶えず浪費を続ける。でその浪費の最たるものが戦争だ。そして人間の進歩はこの浪費を後押しする。正確にいえば進歩そのものが浪費である。したがって進歩と罪としての浪費は人間の歴史の表と裏である、と。これは敬虔なヒロインだけの考えではなくて、確か軍の幹部のような人も「歴史とは破産に向かって進む浪費である」的なことを言っていたと思う。まあいってしまえば良心の疚しさなのだが、80年代後半にうさんくさくない宗教というものを考えたら、こういう感じになってしまうのだろうか。敬虔な浄土真宗の徒である僕にはよくわからん。

とにかくこういう見方は作品を覆っているように思えるのだが、この観点からロケットというものを見ると、それはまさに巨大な浪費の象徴であるように見える。この作品では確固とした目的のためにロケットを打ち上げようというのではない。まあいろいろ思惑はあるのだが、一言でいってしまえばそれ自身が目的というか、まあべつに打ち上げなくてもいいものだ。ロケットを打ち上げられるほどの技術を獲得することを進歩の証しだとするならば、このことは歴史における進歩と浪費の両面性というヒロインの信仰を正当化するようにも思える。

それではすべての浪費を禁じるべきなのだろうか? もちろんそういった原理主義的な傾向をもつこともできるだろうが、歴史そのものがこういった進歩と浪費を必然的にもつのであるならば、人の生そのものが浪費であるわけで、それはたとえばヒロインのようにどんなに慎ましく生きていても例外ではない。だとすれば浪費を不可避的にしてしまった人々が事後的にそれを「いい浪費」にするしかない。つまり、祈って、許しを乞うのだ。おそらくこのことは主人公が最後に行った決断と無関係ではない。今まで自分たちが行ってきたことが「悪い浪費」つまり意味のないことに多額の投資をして結果的には王国内の貧しいものたちを虐げるだけのことであるとしないためには、なんとしてもロケットを打ち上げなければいけない。打ち上げればそれは1とか2にはなるかもしれないが、そうしなければ0以下だからだ。もちろん1とか2のあとに大きなマイナスがやってくるかもしれない。より激しい戦争を引き起こすかもしれない。だから打ち上げられたあと、主人公は祈り、許しを乞うのだ。

この作品を見たあと『アニメ夜話』で制作者でもある岡田斗司夫の話を聞いて、おそらく、少なくとも彼にとってはここでのロケットとは作品そのものなのだろうなと感じた。作品をつくるための莫大な出費、膨大な時間、これらは浪費以外の何ものでもない。作品そのものの価値もわからない。しかしこれを「悪い浪費」にしないためにはなんとしても発表することが必要だ。そして発表したあとはもう祈るしかない。こういう作品に対する岡田自身の気持ちは伝わってきたし、自分自身が何かをつくるとそういう気持ちになるだろうと思ったという点ではなるほどと思うところはあるが、でもやはりどうしても作品を貫いている「良心の疚しさ」には共感できん。