GAINAX『トップをねらえ!』『トップをねらえ2!』

しつこくGAINAXもの。『合体劇場版』とやらは見ていない。『トップをねらえ!』と『トップをねらえ2!』は15年ぐらいの制作年の開きがあるが、まあ一応連続したものとして考えた方がいいかなと。

例によってロボットについてなのだが、ファンの評価はどうなのだろうか。こちらの評価などを見てみると、『トップをねらえ2!』については「最近ロボット分が足りない人」にはおすすめとある。

これはアニメでロボットを見たい人というのはああいうものを望んでいるということなのだろうか。一言でいうと熱い感じ? そうだとするとロボットアニメに僕が期待しているものとかなり違うのだなあとこのアニメを振り返って実感してしまった。

このブログではアニメにおけるロボットについて比較的集中的に考えてきたが、今の段階での結論としてロボットとは何かということについて定義を与えてみようと思う。繰り返しにはなると思うが。で、一言でいってしまえばロボットとは媒介だ。手段といってもいい。そしてリアルロボットアニメとはその媒介としてのロボットをめぐった問いをやめないアニメであるということができると思う。この定義はたとえばウィキペディアにある「リアルロボット」の項目での説明とはかなり違う。でもあえてそう定義しなおしたのはいわゆるリアルロボットアニメというものが今ではほとんど見られないらしいからだ。どうやら今のロボットアニメにでてくるロボットはほとんどがリアルロボット的なスーパーロボットのようなものらしい。まあ何でもそうだろうがスーパーロボットを右に、リアルロボットを左においた時、極右、極左は少数派だ。だいたいが中道、やや右、やや左はあろうが、大多数は真ん中周辺であろう。しかしこれはロボットそのものの分類である。僕としては、なんというか、物語や設定における媒介としてのロボットの位置づけをより抽象化したかたちで考えたいと思っている。そしておそらくその抽象化されたものが「問い」というかたちで現れるのだと考えている。その意味で以前見た『蒼穹のファフナー』とか『創聖のアクエリオン』とかは部分的にではあろうがそういった問いを提示していると読み取れるので、おそらくウィキペディアでの定義ではいわゆるリアルロボットには含まれないだろうが僕自身はそれらをリアルロボットと分類した。

そのことをふまえて『トップをねらえ!』と『トップをねらえ2!』をまとめて見ると、明確に媒介としてのロボットという問いを解体してゆく方向へ進んでいるのがわかる。ウィキペディアでのリアルロボットの定義を参考にしながら、媒介としてのロボットをその実際の運用という観点から見ると、少なくともふたつの点が重要になってくると思う。それは効率性と利便性だ。つまり、ロボットを開発し生産し、そして使用することが経済的で便利だということがロボットが存在しうるための条件だということができると思う。それはどういうことか、端的にいうとそれはロボットは量産可能で原理的には誰にでも使えるということが不可欠の条件であるということを示す。もちろん使用するにはそれなりの訓練が必要だし兵器であるから場合によっては免許制を採用しなければいけない可能性はあるが、時間をかければ誰にでも使えるようになる、ということでなければ意味がない。アムロニュータイプだから普通の人間ではないが、ニュータイプでなくてもガンダムには乗れるし、操縦もできる。逆に言えば、(原理的に)量産不可能で、特定の人間にしか搭乗、操作できないとなった時、それはスーパーロボットとなる。

このことが意味するのは、リアルロボットには個別性、もっといってしまえば人格はないということだ。このロボットは私が操縦しているがロボット自体は私ではない。あたりまえだ。しかしこの当たり前の事実が非常に重要な意味を持つ。ロボットが私自身ではないのならば、仮に私が燃えたとてロボットは燃えない。媒介は対象へのアクセスを可能にするが、同時に直接的なアクセスは禁じる。すでに「燃え」とは直接的に対象へと向かい突進することであると定義づけたが、リアルロボット的なものがこの「燃え」と対立するのはこのためである。一言でいえばリアルロボットは感情を伝達しないのだ。

この観点からすると、『トップをねらえ!』は非常に興味深い。この作品はスーパーロボットとリアルロボットがそれぞれ持っている特性をふたつの異なるロボット、つまりバスターマシンとRX-7に割り当てた。後者は量産可能でその操縦が学校(といっても特殊な学校だが)のカリキュラムに組み込まれている。その意味ではリアルロボットだ。反対にバスターマシンはこの作品では唯一の最終兵器といった位置づけで、主人公だけが原理的に操作可能というわけではないだろうが、兵器としての効率性と利便性は高いとはいえなさそうだ。そして物語の最大の盛り上がり、つまり「燃え」はこのバスターマシンによってもたらされるといっていい。しかしこの役割分担はそれほどはっきりしていない。リアルロボットを個別性や感情の表現の阻害としての媒介と捉えるならば、RX-7もある種の滑稽さによってそういう表現を可能にしていると思う。人間的な滑稽さによってロボット、ひいては搭乗者の個性を表現するというのは『創聖のアクエリオン』にも引き継がれているアイディアだと思う。

そして『トップをねらえ2!』では前作でRX-7に割り当てられていたリアルロボット的な要素がまるまる失われてしまったように思える。上述の量産可能性、誰にでも操縦できる可能性、は全く見られないといっていい。そして設定だけではなくて、物語上も媒介、手段としてのロボット(に対する依存)の否定というものが重要な主題になっているともいえる。確か主人公は「バスターマシンさえあればノノリリのようになれるとか思っていたらのノリリのようには決してなれない」的なことを言っていたと思う。ここではロボットはいってみれば弁証法におけるアンチテーゼにすぎない。それは最終的には止揚される。しかしリアルロボットは止揚の対象ではない。それは否定にはなり得ない。なぜならそれは代替可能なものだからだ。上で述べたリアルロボットに不可欠なふたつの要素はこの代替可能性につながる。そしてこのような止揚を可能にするのが主人公がバスターマシンそのものであったという設定だ。まさに綜合といえる。もはや手段も媒介もあったものじゃない。

このようにいうことができると思う。ロボットと「燃え」、もっといえばロボットと感情の直接的表現をどう両立させるかという問いがあった。『トップをねらえ!』では2種類のロボットを登場させることでそれを解決したといえる。それに対してその10年以上あとに制作された『トップをねらえ2!』ではよりラディカルな解決法を採用した。つまり、ロボットを感情の主体と同一化させた。僕の考えではそれはもはやロボットではない。これがロボットアニメというのなら、そしてそれがロボットアニメとしてよい評価を受けているとするならば、リアルロボットのアニメというのはもう必要とされていないのかなとか思ったりする。あるいは僕の想像するロボットアニメなるもの自体が机上の空論にすぎないのかもしれない。