富野ガンダム+宇宙世紀OVAその他

アニメ関係のエントリーはかなりあいてしまったが、その間にいくつかロボットアニメを見た。とりあえず『機動戦士ガンダム』以降の富野監督作品はすべて見たことになるのかな。あと高橋良輔作品とOVA作品を少し。もちろんすべてについて語るにはあまりにも多いので、見た順に一番古いものから。『蒼い彗星SPTレイズナー』『機動戦士ガンダム』『機動戦士Zガンダム』『機動戦士ガンダムZZ』『逆襲のシャア』『機動戦士ガンダムF91』『機動戦士Vガンダム』『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』『機動戦士ガンダム0083 Stardust Memory』『機動戦士ガンダム 第08MS小隊』。懸案だった富野ガンダムおよび宇宙世紀ものはすべて見た。まあ『機動戦士ガンダム MS IGLOO』は残っているが、あれはちょっと…。残りの富野作品については別の機会に何か書くかもしれない。

最初何となく蒼い彗星って巨人の松本を思わせるなとか思って(あれは青い稲妻か)『レイズナー』を見てみたがけっこう面白くてほかのロボットアニメも見てみようとガンダムシリーズに手を付けた。長いなと思っていたが見てみると意外と長く感じなかったので次から次へと見てしまい、あれよあれよという間に。次は非富野ガンダムダンバイン系か。何か書こうと思うが、まとめて、しかもけっこう時間をかけてみたので、話とか忘れている部分が多い。まあ大したことは書けなかろう。各作品についてバラバラに書いているので、いろいろ重複とかあるが、まあよい。

蒼い彗星SPTレイズナー』:もともと一年かけてやるところを打ち切りのために三ヶ月分まるまる削られたらしい。おかげで最終話が完全にイミフだったが、OVAの第03話でいい具合に補完できた。高橋作品はこれと『装甲騎兵ボトムズ』しかみてないけど、彼の物語は基本的にある謎があって、それが回を追うにしたがって明らかになってゆく、といったものなのだろうか(だから続編がつくりづらい)。この作品の謎について言えば、『超時空要塞マクロス』をみたあとでは、なぜ敵方はそんなにこの謎について神経質になっているのかとか思った。いや気持ちはわかるが。この二つの作品で、かかわっている謎はほとんど同じものなのだが、結論は全く違う。まあ『マクロス』が楽天的すぎるのだが。いずれにしても高橋作品はもっと見てみたい。

機動戦士ガンダム』:昔みた劇場版の記憶がまだ残っていて、けっこう「見た見た」といったシーンがあった。アニメに関して、僕は工藤並みに立ち上がりが悪くて、最初の数話なんか何やってるか全然わからないことが多いのだが、今回はおかげでそういうことはなかった。打ち切りと聞いたので話が尻切れとんぼになっているのかなと思ったが、本編を見ただけなら打ち切りとはわからなかったと思う。どうやら一話完結の話を削ったらしい。正直見るのきついかなとか思っていたが、そんなことはなく、すいすい見続けることができた。これが名作ということなのか。あとどうでもいいことだが、あらゆるところに波平がいて、ちょっと混乱した。どうなんだろう。今よりも昔の方が声優が一人で複数の役をやることが多かったのではないだろうか。だから逆に『らき☆すた』とかではくじらと立木文彦が複数の役をこなすことがニコニコで話題になったりしうるとか。そういえば『ボトムズ』とかでも大林隆介(僕にとっては後藤警部補だ)がいろんな役をやっていたような。

機動戦士Zガンダム』+劇場版:とりあえずはじまりは敵陣への侵入なのね。なんかこれ書き始めた時点でかなり忘れていたので、内容がちょっと変わっているらしい劇場版も見てみた。一番気になったのは、ファーストと比べてニュータイプってものに頼り過ぎかなということだ。ニュータイプって要は設定や演出上のご都合でしょ? もし後続の作品がファーストを超えられないとしたら、それはどんどんニュータイプに依存していったからだと思う。考えてみると、ファーストガンダムでは意外とニュータイプという設定に依存してはいなくて、むしろ後づけ感が強いように思える。そもそも別にニュータイプという設定を使わなくても、アムロという人が初見でガンダムを上手いこと乗りこなせるということにはできるでしょう。現実にも何百万人に一人とかそういう人がいてもおかしくないと思う。むしろほかの人が「アムロと同じように」乗りこなせるということを可能にするためにニュータイプという設定が必要だったのだと思う。つまり、富野がどう思っていたかわからないが、ニュータイプというものがあったためにこういう続編の作品群が出来上がったと考えることができるのではないだろうか。

機動戦士ガンダムZZ』:第33話ぐらい、カミーユが入院している病院のシーンでドクターエリザベスという人を呼び出すアナウンスがあった。これって『レイズナー』のドクターエリザベスと関係あるのだろうか。まあどでもいい。以前Gacktと富野がテレビかなにかでしゃべっていたとき、ZZは語りたくもない駄作、といった感じで暗黙の了解があったようで、そういうふうに扱われていた(富野の発言を追っている人にとっては当然のことかもしれないが)。事実、これを見たあとにwikiとかを見て知ったのだが、劇場版Zではテレビ版のストーリーの変更が行われていて、逆襲のシャアとあわせて劇場版7作でガンダム正史とするとZZはそこから外れるらしい。これはどうなんだろう。そもそもZの結末に不満があったのか、あるいはZZをなかったことにしたかったからそうしたのか。まあでも松坂並みに立ち上がりの悪い僕としては前半が一話完結っぽいコメディタッチの作風であることで、意外とすんなり入っていけた。以前のシリーズとの比較で言うならば、やはりニュータイプという設定に対する依存は強くなっているのかなと思った。おそらくニュータイプって言うのは、マシンに対する高い順応性とか高度な反射神経といったことではなくて、あり得ないコミュニケーションをするために必要な方便なのだろう。これは設定面じゃなくて演出、脚本面の問題なのだと思うが、富野的ドラマの悲劇性は知ること、知ってしまうことにあると思う。その意味で言うと、僕が今までここで(とりわけ新海誠作品新海誠作品についてのエントリー『ガン×ソード』と『ダ・カーポ』を比較したエントリーで)述べてきた「何かを失う物語」と「何かを失ったことに気づく物語」の区別に関して言えば、富野的物語は圧倒的に前者にかかわるものが多い。もしかしたら『∀ガンダム』のエンディングは後者に属する物語かもしれないが。なんかZZそのものとかなり離れてしまったが、このように富野的な物語を進めていく上で必要な「知る」ということをかなり困難な状況でも可能にするものとしてニュータイプという設定は非常に便利だったのではないだろうか。確かどちらかのブログで拝見したのだが、「職業軍人アムロに簡単にやられてしまうのがリアルじゃない」という意見に対していやアムロはすごく努力しているから不思議はない、という議論があった。だとしたらなぜニュータイプという設定が必要であったかということが問題になるはずだ。

逆襲のシャア』:これを見る前に思ったことは、やっと大人が主人公になったか、ということだ。ちょっと辟易していた。正確にいえば子供が主人公でもいいのだが、いちいち「大人なんて」とか言うのがうざい。とか思っていたらまたガキがでてきた。しかも色々余計なことをする。純粋にアムロとシャアの対決だけが見たかった。こんなこといっては何だが、ここまで見てきて、ニュータイプという設定のないガンダムシリーズを見たかったなと思う。結局この設定があるからガキがでてくる。もしかしたら発想の順番は逆で、子供を主人公というかパイロットにしたいためにニュータイプという設定をつくったのかもしれないが。

機動戦士ガンダムF91』:何だこれ総集編か? とか思うほど展開が早い、というかなんか端折られている気がしたが、実際もともとテレビシリーズにするつもりのものだったらしい。これはテレビシリーズで見たかった。ところで主題歌を歌っているが森口博子だが、多分この当時、ガンダムシリーズを知らない人にとっては彼女はバラエティ番組にでてるタレントというイメージだったろうと思うし、僕にとってもそうだった。あまり記憶が定かではないのだが、その当時ぐらいに「好きなアイドルベスト10」みたいな企画がテレビなんかであって、そこに彼女が入っていて何で今更アイドル扱いされているんだろうとか思ったが、この作品とZのおかげか。Zの主題歌は聴いたことなかったが、この作品の主題歌は聴いたことがある。

機動戦士Vガンダム』:石井一久並みに立ち上がりの悪い僕としては最初の方はなにが何やらさっぱりわからなかった。ちょっと調べてみたら、どうやら第01話はもともと第04話あたりに入るものだったらしい。そりゃあわかるはずがない。ところでこの作品はあちこちで鬱だと言われていて、ちょっとどうなるかと思ったが、あんまりそんな感じはしなかった。そりゃ人は死ぬが、戦争なんだから死ぬだろ。それよりも僕が気になったのは主人公が以前の作品よりもうざくないということだ。あんまり大人大人言わない。それともうひとつ気になったのは、これについてはまたあとで何か書くつもりだが、主人公が乗っているガンダムが両利きだということだ(正確でない表現かもしれないが)。あと90年代前半はまだ乳首規制(?)はなかったんだな。

機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』:なんか一番しっくりいったかもしれない。何より僕自身にとってよかったのは戦闘中ほとんど会話がなかったということだ。まあ全部で6話と短いのでモビルスーツの戦闘自体もあまりなかったのだが。あとなんといっても子供の描かれ方が富野ガンダムと全く違って、繰り返しになるが「大人、大人」いっている子供に辟易していたので、よかった。主人公には子供的な聞き分けのなさとかもあるのだが、意外と余計なこと言わなかったり、機転が利いたりと、ちょっと感心した。それはそうと宇宙世紀の中で量産型ではないガンダムが最もやられたのがこの作品なのかな。

機動戦士ガンダム0083 Stardust Memory』:なんかガンダム版『マクロスプラス』って感じがした。最後の方でわかることだが、三角関係っぽい三人の物語。まあ『マクロスプラス』ほど大人げない喧嘩って感じではないが、いずれにしても対決する者同士の対話が多くなる。この辺りは『0080』と異なる点だと思う。あとちょっと思ったのは、最後の方にティターンズバスク・オムがでてくるが、違う監督、スタッフの作品でもアニメの場合は同じキャラを出すことができるんだな。この辺りはマンガと違う。もちろん記号として同じキャラを出すことはできるが、作者が違えばデザインは異なる。たくさんの人が原画を描いてキャラデザにしたがって作監が直すというシステムは、作画崩壊というリスクはあるが、異なる作品に(マンガよりも同一性の高い)同一のキャラを登場させることができるというメリットがあるのかもしれない。まあ見る人が見ればこちらのバスク・オムはZの彼とは異なるということが見て取れるのかもしれないが。僕にはわからん。

機動戦士ガンダム 第08MS小隊』:モビルスーツ、というか、ロボットは宇宙で戦うより地上で汚泥とか砂にまみれた方がかっこいいと思う。このことは僕がバレエよりも舞踏が好きということと関連しているのかもしれない。その意味では格好の作品なのだが、ガルマ死去時点で陸戦型とはいえガンダムが量産できてるってちょっとおかしくないか? と思ったらwikiには色々いいわけじみたことが書いてあった。まあでもロボットは量産型になってなんぼだと思う。ちなみに最初は主人公は『無責任艦長タイラー』のタイラーみたいなキャラなのかなとか思ったが、最後の方では粘膜が作り出す幻想に殉じた人のようになってしまってちょっとがっかりだ。まあ死んでないけど。あとがっかりしたのが、特に後半になるとはっきりしていくのだが、主人公のナイーヴさだ。いや別にナイーヴさが悪いわけではないのだが、ナイーヴなものが正しいというのが腹立つ。正確にいうと、ナイーヴな理念を実現するためには、高度な、そして時には狡猾な戦略の実践が必要になる。そういうのをすっ飛ばしてナイーヴな理念だけを喧伝するのには虫酸が走る。今やっている『図書館戦争』にも同じことが言える気がする。富野ガンダムにでてくるガキどもはみなことごとくそうだ。彼らの場合正確にいえばナイーヴを装っているだけだが。

これらを見てみて思ったのは、やっぱり僕は登場人物の心理とか思想とかに興味がないのだなということだ。そういう意味では、僕は心情的にはアヴァンギャルディストなのだなと。直前に書いたナイーヴさに対しての嫌悪感ってのはこのことと関連している。それは表現を飛び越えて(無視して)表現されるものを信頼しうるということを前提としているからだ。アヴァンギャルディストはむしろ逆だ。言ってしまえば幻想よりも粘膜を信じる。もちろんその先の幻想を幻想として信じるということはあり得る。しかしより重要なのはそれを表現する粘膜の方だ。そして粘膜にかかずらっている限り、その先のものなど本来的にはどうでもいい。むしろその表現がどう編成されているか、どんな機能を持つかを知ることの方が重要だ。そしてあらゆる表現は外在化されたものである以上、内面性、心理などはその彼岸にあるものに過ぎない。なんか変な言い方だが。実は「萌え」あるいは登場人物の記号化(というのだろうか?)はある意味で内面性がはぎ取られるプロセスだったのかもしれない。その意味では富野アニメとは全く反対の方向性だ。最近のエロゲ原作とかで意外と(僕にとって)見られるアニメがあるのはそういう理由からかもしれない。なんか大雑把な言い方になるが、ロボットとか「萌え」とかって登場人物の内面性を排除する機能も持っているのかな。正直最近ロボットがでてこないアニメとかあまりみる気がしない。一般的に言うロボットでなくてもいい。『南海奇皇』のようになんだかよくわからないものでもいい。ロボットがでてこなかったら果たして富野アニメを見ていただろうか? まあでもそれはすべてのロボットアニメに言えることかもしれないが。