力のインフレの話

インタラクティヴ読書ノート別館の別館:『ユリイカ』2008年6月号「特集:マンガ批評の新展開」
以前僕が考えていたことと関連しているので。言及されているユリイカを読んでないので見当違いになってしまうかもしれませんが。

リンク先では、ジャンプにおける戦闘マンガの特徴として「力のインフレ」をあげ、この特徴が次第に薄れ、それにかわって「制約の中での頭脳戦」を行うといったようなことが増えてきたとしている。しかし『ハンター×ハンター』におけるようにそういった限定を前提としていながらもどんどん力のインフレに向かってしまっているというある種の矛盾がある、と。

この点については僕もいくつかエントリーを書いている(こちら)。そこで書いたことは、一般に言われているように「力のインフレ」というものがジャンプ的な戦闘マンガにおける特徴の本質的なものなのだろうかということだ。たしかにそこに含まれる多くのマンガにおいてインフレがおこっているなあと思うことは多いのだが、ではそれを可能にするものは何なのか。それは力の可視性だ。何百万パワーとかスカウターとか。力なるものが客観的に比較可能だから、インフレが客観的に確認できる。その意味で言うと『ハンター×ハンター』はこの流れからまったく外れていない。例えばある時期までのキルアのチキンぶりはまさにこの力の可視性によってもたらされている。まあこの作品でやりたいことは僕なりには理解しているつもりで、それは強い敵をがんがんやっつけるというよりも、念というシステムをできる限り網羅的に記述するということなのだと思う。そしておそらくこのことは『DEATH NOTE』にも共通している。そしてそのためには念というものの質と量が可視的でなければならなかった。だから円の広さとかで能力が客観的に測定でき、そのため力のインフレが可能になる下地が用意されていた。その意味で力のインフレを回避できたのは『ジョジョの奇妙な冒険』ぐらいではないかと思う。ではなぜこの作品が回避できたか。以前のエントリーではその理由として能力を外在化したということをあげた。つまり能力を持っているのはスタンドであって、スタンドで戦っても本人は別に強くはならない。たしかにそうだと思うのだが、多分本当の理由は「比較しないから」だと思う。つまり今戦っているやつはあのときのやつより強いとか弱いとか、そういう記述はあんまりなかったと思う。事実、『ハンター×ハンター』で力のインフレが明白になったのは、ハンター協会の連中が束になったかかっても蟲の王様に勝てないとキルアが感じた瞬間だ。つまり比較しているわけだ。もちろん、力の可視性はまさにこの力の比較のために必要な要素だった。

鋼の錬金術師』については、なにがインフレを回避させたかというと、あんまり読んでないのでたいしたことは言えないが、少なくとも言えるのは手打ちがあるということだろう。要するに戦いに勝つことが目的なのではなくて、目的なその先にあるであろう何かで、その何かに到達できる、あるいは近づけるならば別に戦う必要はない。つまり戦いの前のネゴシエーションがより重要になる。このことは『ハンター×ハンター』にも言えることだと思う*1。そしてこのネゴシエーションは力が可視的では決してないということが前提となる。正確にいえば、仮に可視的であるとしても、それを証立てるものは何もない、つまりそれが本当に正しいかどうかは誰もわからないということだ。だからネゴシエーションを通じて探り、次の行動を決定する。いずれにしても『鋼の錬金術師』はジャンプ作品にみられる力の可視性とはかなり遠いところに位置づけられるだろう。

*1:この点に関してはこの作品はちょっと複雑で、正確にいうならば、力の可視性が前提だから、その可視的な力を偽るという選択肢がでてきて、それゆえに可視性を前提としないネゴシエーションと同様の困難さが生じるということだと思う。