しつこくリアルロボットの話

けっこうロボットアニメ(といってもファーストガンダム以降だが)をみたのでもう一度リアルロボットについて考えてみようと思う。リアルロボット/スーパーロボットの区別ってここでブログを書いてその反応とかを見ている限り、いろいろ評判が悪いというか、なんというかだが、僕としては考える余地のある問題かなあとは思っている。個人的な理由としては、やっぱり『ゲッターロボ』シリーズとか『神魂合体ゴーダンナー!!』とかみるのが本当にきつくて、それらは一般的にスーパーロボットと見なされているというのがある。最初はこんな感じでいい加減なものだ。で直感的にこれらの作品とほかの僕が好む作品とは違うなあと思うところがあって、まあその違いは検証してみる価値はあるかなと。

この区別をあまりよく思わない人はなにを問題視しているかと察するに、リアル/スーパーの区別をリアル/非リアルとしたうえで、そもそもロボットにリアルとかあるか! ってことなのだと思う。だからこの区別を弁護(?)するためにはリアルとは何か、という問題に取りかからなければいけないのだろう。

一番いけないと思うのは、リアルであることとリアルだと思うことを混同することだ。ネットとかをみてみると、ガンダムボトムズパトレイバーもリアルじゃないだろ、という時、多くの場合俺はそれらをリアルだと感じない、ということを示しているのではないか。もちろんそれは僕自身がガンダムとかボトムズとかをリアルだと信じているかどうかということとは関係ない。問題なのは、リアル/スーパーを区別するときにリアルなるものを概念化しなければいけないだろうということだ。もちろんそのうえでボトムズがリアルロボット足り得ないということはあり得るだろう。その意味でいうと、リアル/スーパーの区別を批判するときに二分法はいかんという人がいるが、そういう概念化をしていない以上二分法すらしていないのではないだろうか。

ではリアルとは何かって話なのだが、ちょっとだけ語源を参照するならば、realとはラテン語のresに由来するだろう(それより先は知らん)。resとは物だ。ちなみに調べていないけどメールの返信のre:はresの奪格からきてるんじゃないだろうか。違ったらすみません。で物とは何かってことだが、これはいろいろな人にとって解釈が違うだろう。例えば可視的なもの(したがって見えないものはそこに含まれない)とする人もいるだろうし質量を持つものという解釈もあるだろう。だからリアル/スーパーの区別にあたってはリアルとは何かということについてあらかじめ決めておく必要があるだろう。僕としてはそれは形而下的なものとしていいのではないかと思う。つまりロボットを形而下的なものとしてとらえているのをリアルロボットと。ではスーパーロボットとは形而上学的なものとなるのだろうか。形而上学的なロボットって何だ。これはもちろん村上春樹的な意味ではない(と思う)。多分ここでいう非リアルということについてはふたつの可能性を指摘できるだろう。ある意味インターフェースとしての両義性(それによって対象にアクセス可能になるが、直接的なアクセスを不可能にする)を看過してしまうか、あるいは人間的な内面性を持っているか。このふたつは多くの場合重なる。いうまでもなく内面性、そして自我とは形而上学的なものだ。だから精神分析は科学的ではないという批判が成立する。要するにこのロボットはリアルロボットだ、というとき、それはこのロボットには内面性がないというに等しい。これは主観的な判断、受け手の印象によるものではなく、もちろんこれを100%排除することは難しいだろうが、とりあえずある程度客観的に判断できるのではないかと期待している。

しかし多分これではまだ曖昧だ。なぜならロボットにおける内面性の有無というのはいくつか違う面において検証しうるからだ。ぱっと思い浮かぶのは次のふたつの側面だ。

設定面:これが一番最初に浮かんでくることかなと思う。単純にいえば物語中においてロボットがどういうものかということだ。リアルロボット的な観点、つまりロボットをものとして考えるならばロボットとは多くの場合兵器なのだからそれなりの管理が必要だろう。荒川茂樹にいわせれば兵器がスタンドアローンだなんてナンセンスだ。逆にロボットがものではなく内面性を持ち合わす何ものかであるならばそのような管理は倫理的な問題になりうる。「かわいそう」とか言い出すやつもでてくるだろう。そしてこの管理がしっかりしていなければ敵方に利用されることもある。ロボット自身に意志がないのなら、ロボットが相手の手に渡ったときはむしろ主人公たちからみて敵になること(あるいはその逆)も十分考えられる。これが『機動戦士Zガンダム』であり『機動戦士ガンダム 0083』、そしてある意味では『戦闘メカ ザブングル』の例だ。またロボット自体に内面性が組み込まれているということもある。組み込まれているといっても人工的にそうである必要はなくて、いわゆる生物的なものでもよい。要は内面性があるかどうかだ。例えば前者の意味では『Z.O.E. dolores,i』がそうだし、後者では『ブレンパワード』、『新世紀エヴァンゲリオン』がそうだろう。しかしこの点については解釈の余地があり得る。僕はここで内面性を自立的な意志の存在と考えているが、アンチボディやエヴァがそういったものを持ち合わせているかどうかは異論の余地があろう。例えばこういうことだ。昔心理学の授業で英語をしゃべるインコのヴィデオをみたが、そこではインコがいうことを聞かないので担当者がいなくなってしまった。するとインコはI'm sorry I'm sorryと繰り返し言った。しかしこれはインコがすまないと思っているからそういったのか(正確にいえばすまないと思っている必要はない、そういえば担当者が戻ってきてくれるとインコが思っていればいいのだが)、あるいは担当者がある条件を満たしたいなくなったら自動的にそう言うように教育、インプットされているかはそのヴィデオだけでは判断できない。後者の場合人間がそれを持っているという意味で自我、内面性を持っているとは言えないだろう(そして人間と言語的コミュニケーションができるともいえまい)。しかしみてる人はインコにそういうものがあると思うことはできる。アンチボディに触れることで比馬が人間的な交流をできたと信じることができるのと同じように。なぜそのように思うことができるのか、それはそのメカニズムを完全には把握していないからだ。インコの脳や知性について我々は完全には把握していない。エヴァについてもアンチボディについてもそのメカニズムは完全には明らかになっていない。わからないものを人間的な何ものかによって補うということはあり得ることだと思う。その意味で比馬がアンチボディに話しかけることと野明がアルフォンスに話しかけることは意味がまったく異なる。アルフォンスに対する野明の関係は単なるフェティシズムだ。フェティッシュの語源はラテン語にまでさかのぼるとfacticiusつまり人工物のとか偽りのとかいう意味らしい。つまり人工物を人のように愛するのが野明の態度で、後々そのような態度は彼女自身によって乗り越えられる。比馬の態度はまったくそれとは違う。そもそもアンチボディは人工物ではない。ここで重要なことは、物語中において登場人物がよくわからないロボット的なものに対して人間的な何かを見いだすということと我々視聴者がそうするということを(究極的には不可能かもしれないが)混同してはいけないということだ。
あと付け加えるならば、河森正治の作品についてもこういったロボットの物象化(?)といった傾向が見られる。つまりどういうことかというと、河森にとってはロボットは三次元的に復元可能なものでなければならない。プラモデルやら超合金やらにしたときに、ちゃんとアニメで行われるように変形や合体ができるようでなければならない。こういった観点から河森はリアルロボット(=物としてのロボット)を突き詰めていったと考えることもできる。

演出面:これについては富野ガンダムをみて気がついたのだが、意外とこの点については看過されてきたのかなと思った。もちろん現場の人は意識的だっただろうが。つまりどういうことかというと、ロボットが人間のように振る舞うかどうかということだ。僕が記憶に残しているのは、ファーストガンダムで元ジオン軍のおっさんが子供たちと一緒にどっかの孤島で暮らしている話で、なんか崖の上でそのおっさんのザクとの戦闘があった。ザクの脇腹が敵の攻撃によってやられたとき、手でその傷口(?)を押さえて膝をつきそうになるシーンがあった。ロボットなんだから傷口を押さえる必要なんてない。しかしロボット同士の戦闘を人間同士の戦闘のように演出するのであればそれは自然だといえるかもしれない。その意味でいうと、ロボットアニメとは兵器による戦闘を生身の人間同士による戦闘のように演出したいがために作り出されたものであるということができるかもしれない。おそらく富野アニメに限らずとも、こういった人間が戦闘しているような演出というのはそこかしこに見いだすことができるのだと思う。しかし富野に関していえば、このような演出にある種の批判を作品内に込めているのかなということも感じた。それはジオングに関してだ。本来ならばロボットなのだから人間のように戦う必要はない。人型の造形をする必要もない。しかしえらい人にはそれがわからないと。第一義的にはその偉い人とはジオン軍の偉い人だろうが、まあロボットが人型でないと困る人たちはほかにもいるだろう。そういう人たちに対する当てつけであるとみることはできなくもないし、僕は読んだりみたりしていないからわからないが、監督自身もそういうことを言っててもおかしくないだろう。そしてこういった演出面での特徴は上述した設定面にもかかわってくるのだが、人間が振る舞うように振る舞えるということは機械としての媒介性が失われるということにも繋がる。Vガンダムは両利きであるらしいが、それはウッソが両利きとして育てられたかららしい。つまり搭乗者の特徴がそのままロボットに反映されているのだ。例えば外科手術用のロボットとかで、執刀医の手の動きをそのまま反映させて直接するにはあまりにも小さい部位の手術を可能にするものがあったと思うが、ロボットの操作がそういうタイプのものであればまあ説得的ではある(『ガン×ソード』はそういう感じだったか?)。しかしガンダムはそうではなかったと思う。むしろここでは両手でビームサーベルなりミサイルなりを扱えるようにしたいという演出的な配慮がおおきいのだと思う。あと非富野ロボットでいえば思い浮かぶのは『交響詩編エウレカセブン』の第48話のジエンドとかかな。

リアルロボット/スーパーロボット(非リアルロボット)の区別はロボットを物として捉えるかそうでないかということなのだが、それには二通りの考え方がある。つまりロボットが物として動くか、まわりのものがロボットを物として扱うかだ。言い方を変えればロボットが内面性を持ったもの(=人間)のように振る舞うか、まわりの登場人物がロボットが内面性を持つ存在であるかのように振る舞うかだ*1。これらのことが上記ふたつのポイントと関連する。実際にはまわりの登場人物がロボットをものとして扱っていてもまるで人間のように振る舞うこともあるだろうから(僕はガンダムシリーズはそういう側面がきわめて強いと感じた)、この区別においては「この作品はリアルロボットアニメだ」と断ずることはできない。むしろ個々のロボット、個々のシーンがリアルロボット的かそうでないかという区別しかできないだろう。いずれにしても「この作品はリアルだからリアルロボットだ」的なことはやめよう。意味ないから。

*1:この点に関してはロボットが未知のテクノロジーやら物質やらによってつくられているかどうかということがおおきくかかわってくるだろう。これは『勇者ライディーン』とか『伝説巨神イデオン』とかからすでにみられるものだろうが、未知のものが人間的な内面性と結びついたという意味ではやはり『エヴァ』以降とくに顕著になったのではないだろうか(とかいいながら『機神大戦ギガンティックフォーミュラ』ぐらいしか浮かばない…orz)、いずれにしてもそれが未知のものであるならば人間と同様に内面性があるということを否定できないからだ。