絵の上手さの話

昔どこかですごく前のエントリーに対してブックマークしたりトラックバックしたりすることは何となくはばかられるという話を読んだことがある。事実あんまりそういう例はないような気がする。ブックマークはそうでもないけどトラックバックは特に。

まあでもしょうがない。というわけでid:yskszkさんの一年以上前のエントリー。漫画における絵の上手さとは何か、という話だ。このことについては僕はアニメ関係の話で演出の良し悪しの問題についてちょっと考えていて、それと多分形式的には同じ問題ではないかと思う。簡単にいって、そこで僕がいっていたことは、絵そのものとその上手さを判断する基準を切り離して考えなくてはならなく、後者は自明ではないということだ。僕は基本的に文学作品でもマンガでもなるべく(ちゃんとできているかわからないが)リテラルに読むようにしているのでその観点からすると後者の判断基準は問題にならない。リテラルに読解するというのはその作品を受容するときに作品に投影される受け手の感情とか判断とかをなるべく排除するという態度だ。言い換えれば作品と作品を取り巻く作品環境を厳密に区別するという態度ともいえる。作品環境というものにはそれを取り巻く社会や受け手の層、あるいは受容の際に喚起されるであろう感情などを含む。その意味では「萌え」なるものそういった作品外的なものに含まれるだろう。別にそういったものがいけないと言っているわけではない。ただそれは受け手の感情に依拠しているものなので作品に内属するものではないということだ。だから作品環境(例えば作品を受容する総体としてのオタクとか)を語るときには非常に有効な概念になるのだろう。もちろんそれは僕自身が萌えをそのように考えているだけであって、そうではない分析方法もあるのかもしれない。

絵そのものとその上手さの基準は全く別の領域に属する。前者は作品に、後者はそれを受容する場、とりわけ受容者に属する。だから「ファインアートにおける「うまい絵」と、漫画における「うまい絵」は別物で」あるというのは正しくない。それが作品ではなくて、受容者に属するなら、ファインアートにおいても漫画においても「うまい絵」というのは別物でない可能性があるからだ。福本伸行の絵をうまいと思う人もいれば、五十嵐大介のそれを上手いと思う人もいるだろうが、それは好みの問題ということもできるが、それよりも言えることは両者の上手さの基準は異なり、受容者はその基準を恣意的に選びとることができるということだ。ここで注意しなければいけないことは、作品と絵の基準は別ものだといままでいってきたが、作品は常にこういった基準に異議を申し立て、そして新しい基準を提示していくだろうということだ。このことはこれまでいったことと矛盾していない。既存の基準が外的なものであるがこそ、作品そのものがそれにあらがい、そこから脱しようとするからだ。おそらくヨーロッパの美術や文学はそのような形で発展してきたのだと思う。フランスでは18世紀ぐらいまでかなりかちっと決まった形の詩の形式があったがそれが19世紀にはいるとどんどん崩れていった*1。もしそのとき詩の上手さを語る人がいたとしたら(いたと思うが)それはその形式を前提としているはずだ。だとすれば崩れて以降の詩はその前提がないのだからその判断の基準も必然的に異なってくるだろう。まあ非常に単純化してしまったが、いずれにいても福本伸行の絵の上手さを測れる基準(の一部)は福本伸行の出現以前にはなかった可能性がある。もちろん彼の作品と彼以前の作品を同時に評価する基準をつくれないということではない。しかしその場合彼のオリジナリティの一部を損なう形で評価してしまうということになってしまうのではないだろうか。なぜならば漫画(だけじゃないと思うが)においてオリジナリティということが言えるとすれば、そこには新たな評価の基準も同時に作り出すということも含まれるだろうからだ。

言いたいことはこういうことだ。僕のまわりには少なからず、作品をダシにして何か違うことを語る(世代、社会、「オタク」など)ことに対して違和感を感じている人がいるが、僕もその一人である。漫画なら漫画を語ろうよ、とか思ったりすることはある。しかしそう考えたときにそれでは絵の上手さというのはそこに含まれるのか、と問われたらそれは多分ノーだと思う。もちろん読んだときにこいつ上手いなとかこいつ下手だなとか思ったりすることはある。しかし僕は僕自身の美的感覚というかもっと言えば思考を信じていないので、それはその時たまたまそう思っただけだろうとか思ってしまう。アニメとかでも作画崩壊とか言う人ってよっぽど自分の眼とか思考とかを信頼しているんだな、それを疑う術を持たないのかな、とか思ってしまう。

*1:おそらくヨーロッパの人には形式は常に外的なものであるという認識があるのではないだろうか。その上でむしろ形式に従え、というポーランの思想などが独特のものとして現れるのだろう。そのあたり日本の詩歌とだいぶ違うのかなと思う。