グルメ漫画の話その2

前のエントリーで変な引きをしてしまったけど、実はあんまり何も考えていなかった。でもあんまり時間を空けるとなんなので書いてみるが、まあ見切り発車で。

まず前のエントリーをまとめる。提示した問いは、味覚の不確かさ(共有できない、人それぞれ)を前にして、いかに料理や飲み物に関する物語を表現していくか、だ。図式的に言えば、Aを飲み物や料理、Bをそれを摂取する人の感覚やもっと言えば満足度、→で因果関係を示すとするならば、A→Bとなるわけだが、本当にこの図式が成り立つかどうかは突き詰めれば誰にもわからない。『ラーメン発見伝』に倣っていうならば、そこには常に味覚とは関係ない「情報」が入り込んでくるからだ。言ってみれば『美味しんぼ』はこの「情報」の方が味覚そのものよりも重要だと言ったということになる。そして『築地魚河岸三代目』では、やや嫌らしい言い方になるが、仲卸は味覚そのものよりも歴史的に積み重ねられた修辞(目利き)を信頼しつつ仕事をしているということになる。ちなみにこの作品について補足すれば、こういった条件の下で、主人公の三代目の人並みはずれた味覚、およびその記憶力が重要になってくる。なぜならその能力は修辞の正しさを証明してくれるからだ。これらの作品は先の図式に戻るならば、A→Bの唯一性というか正当性を盲信するのではなく、その他にもC→BとかD→Bとかいった別の図式を提示しているということができる。CとかDとかには例えば料理を取り巻く空間とか、流行とかを当てはめることができるだろう。

しかし(そうある必要があるかは別として)十分にアヴァンギャルドではないという指摘はできるだろう。僕が理解するアヴァンギャルドとは、厳密な唯物主義、彼岸を認めない態度だ。料理はただ料理であって、その先に何か特定の感覚を規定するということはない(表現できない)、こういった態度だ。たとえば『ラーメン発見伝』においては先のエントリーでも指摘したように、「悪い食い手」を相手にしなければならなかった。しかしそれは味のわかるやつ、つまり「よい食い手」を前提としてそこに含まれない人たちのことだ。言ってみれば「味をわかることが可能である」という前提に立っているということになる。『築地魚河岸三代目』の主人公の鋭い味覚も、まさにそのことを証明する機能も持っている。

で、多分それとは全く違う方向性を持った作品群があるっていうのが今回の話。おそらくこれは傾向でいうと少年誌に多くあるタイプだと思うが、そこで表現される料理そのものよりも、リアクションが大事というタイプ。これは前のエントリーでの区別でいうと味の優劣をはっきりさせるタイプ、特に謎の対決をするタイプに多いと思う。あんまりおぼえていないけど、『ミスター味っ子』あたりがはじまりなのかな。wikiによればこの作品の指摘すべき表現として「リアクション」という項目があり、またこれについて他作品への影響についての記述もあるので、この作品で発明されたかはともかく、まあ初期のものではあるのだなと思う。

テレビのグルメ番組もそうだが、結局映像で表現できるのは料理なら料理の映像と、食べているシーンだけだ。「味覚なるもの」を直接的に表現することはできない。それを感じることができるのは味わった人だけであって、そうなると当然味わった人がどういったリアクションをとるかということが問題になってくる。この場合あるリアクションが特定の味覚の質を表現しているというようには考えない。例えば食べた瞬間の目尻のたれ具合で甘みがわかるとかそういうことではない(と思う)。そうじゃなくてもっと漠然と、美味しそうに食べるかそうでないか、といった問題なのだろう。所詮は他人が食っているわけだから、味なんぞは究極的には伝わらん。そこから諦念とともにリアクションの逸脱が始まる。リアクションが自律してゆく。「味のIT革命や〜(本人がいったのではないらしいが)」というのが何かしら味の質を語っていると考えるものはいまい。むしろリアクションの自律性を獲得するためには、語るべき味の質からかけ離れていればいるほどよい。そしてそのうち語るべき味の質からの逸脱とかそういうこと自体もどうでもよくなってくるだろう。「お前それがいいたいだけなんとちゃうんか」とかいうツッコミを受けることになる。その意味ではギャラクティカマグナムのような必殺技のかけ声と近いかもしれない。

いうまでもなくテレビのグルメ番組のリアクションと漫画でのそれは同じではない。主体の違いというか、テレビの場合は彦摩呂なりホンジャマカ石塚なり個々のタレントが芸としてどう構築するかということが問題になるだろうが、漫画の場合コマの構成が問題なので、食べた本人が何かするということもあるだろうが、なんかイミフなイメージをそこにぶち込むという手もある。たとえば『江戸前鮨職人きららの仕事』ではコハダの握りを食べた女性審査員が「コハダに恋しちゃいそう」とかいいながら詰め襟着たコハダくんにラブレターを渡すシーンがバックに描かれたりする。こうやって文章で説明するとかなりバカらしいがまあそういうことだ。いずれにしてもテレビにしても漫画にしても、リアクションというものが元となる食べ物飲み物から切り離される形で発展してゆくと、多かれ少なかれギャグの様相を呈していくと思う。多分それは必然性を失っていくからなのだろう。その意味で、僕には『神の雫』もギャグのように見えてしまった。これはワインの話なのだが、ひとくち口にするとなぜか場面が変わって急に草原のただ中にいたり、母親がでてきたりする。しかもそのように現れた場面は飲んだ人すべてに共通らしい。で、このように口にすることで現れる映像をもとにして、ブラインドテストを行ってゆく。

前のエントリーで説明した作品群は食べ物飲み物を口にしたときに得られる味覚を中心とした感覚の総体を純粋にその食べ物飲み物に帰すのではなく、その他様々な要素によって重層的に決定されているということを示した。それに対していわばリアクション系の作品たちはリアクションという行為、漫画によって表現できる食べ物飲み物の摂取の結果を原因であるところの食べ物飲み物だけでなく、すべての要素から切り離したといえる。そうすることでリアクションは自律性を持ち、それが行われる背景や読者が(普通ならば)原因と見なすであろうものから切り離されることで必然性を失い、ギャグ化する。ギャグ化するという観点からいうと、おそらく本質的なのは面白いリアクションをすることではない。重要なのは必然性の喪失とそれによる自律性の獲得だ。そしてこのことは何もリアクションだけに限らない。たとえば『食キング』では主人公の北方歳三は流しの「B級グルメ店復活請負人」であり、まず閑古鳥が鳴いている料理屋がある。そこに北方がやってきて謎の特訓をする。そして新しいメニューが出来上がり客は涙を流し鼻水を出しながら喜んで食う。基本的にすべてこのパターンだ。そしてその謎の特訓というのが素晴らしくて、恋人同士でラーメンを作るのに互いの信頼感を獲得するためにサーカスにいってナイフ投げをしたり(片方が的になる)、厨房内を無駄なく動けるようにするために卓球の訓練をしたり、ハンバーグを大量にこねる体力をつけるために相撲部屋でマッサージをしたりする。このようなイミフな訓練をすることで必然性が失われ(北方にとってはそうではないのだが)、どんな料理であってもどんな店であっても変わることのない再建のプロセスによって形式が自律性を持つことで素晴らしいギャグ漫画になっている(と僕は思う)。みんな読むといいと思う。ちなみにどうでもいいことだがこの作者の土山しげるって人は『UFO戦士ダイアポロン』の原作の作画をしていた人らしい。

たしかにこの『食キング』の例はリアクションそのものとは直接的には関係ない。しかし最初に示したA→Bの図式の不確かさに対してどう対処するか、という問題があったとき、前のエントリーで取り上げた作品群はA以外のものを原因としていくつか示すことによって結果としてのBは重層的に決定されているということを示した(その際Aそのものは原因として否定されない、相対化されるだけだ)。それに対してこのエントリーでリアクション系として示したものは『食キング』も含めてA→Bといった図式そのもの、正確にいえばBに前置されるすべてのものを否定する。因果関係自体を破壊するといってもいい。その意味で(この観点からのみ)『食キング』を含めこのエントリーで示した作品たちは前のエントリーのそれらよりもアヴァンギャルドだし、もしグルメ漫画というものを(不確かなものであれ)A→Bの図式の中で理解するなら、これらの作品はどんどんグルメ漫画から遠ざかっているように見えるだろう。

そして僕が読んだ中でこのグルメ漫画から遠ざかるという方向性をかなり突き詰めていったのが『焼きたて!! ジャぱん』だ。まあネットとかで見る限り打ち切りになった作品のようなので作者が望んでそうなったかどうかはわからないが、最初はパンの作り方とかかなり詳しく記述されていてwikiとかによると「プロも読んでいた」らしいがだんだんおかしくなってきて、最後は主人公の仲間がダルシムになって終わる。イミフだが本当にそうなのだから仕方がない。そしてリアクションもかなり末期的な症状になっていたと思う。パンを食べたあと謎の世界に入り込むことが多いが、それが何しろ長い。確か一話まるまるリアクションということもあったと思う。謎の世界に入り込むだけならいいが、実際に姿形が変わってしまうこともあった。確かダルシムにもパンを食べて変身したんじゃなかったっけ。確かに後半は特にもう一般的な意味でのグルメ漫画ではなくなってしまったようだが、僕がいう意味でのグルメ漫画の方向性をある程度まで押し進めた結果であるということはできると思う。

まとめ。最初の問いは次のようなものだ。出された料理や飲み物と食に関する満足感との間を単純な因果関係で結ぶことはできない。なぜなら味覚は人それぞれだし、それを測る共通の尺度は(少なくとも一般人には)ないからだ。そこで二つの選択肢が現れる。ひとつは料理と満足感の関係を相対化するという方向。つまり出されたものだけが満足感を規定するわけではない、いろいろな条件が重層的に絡み合って結果として満足感が規定されるのだという考え方である。それは料理が持っている文化的な積み重ねであったり、食べる側の精神状態であったりするだろう。それに対してもうひとつの傾向はよりラディカルだ。つまり因果関係そのものを破壊しようとする傾向だ。もう料理そのものが美味いとかまずいとか関係ない。いかにおもろいリアクションをするか、料理をネタにしていかにストーリーの形式を作り上げるかが問題となる。この傾向は突き詰めるとそもそも料理をテーマにする必要があるのか、という問いにぶつかるだろう。その意味でラディカルだということができる。

最後に、ブクマでid:Louisさんが指摘なさったことについて。『クッキングパパ』についてだ。一連のエントリーを書いた時まだ読んでなかったが、指摘されて一巻だけ読んだ。これを読んで思ったのは、おそらく僕が読んだものは城アラキ原作のものをのぞいてほとんどすべて「美味さの比較の可能性」を前提として実際に比較している*1。これは上記の二つの傾向どちらにもいえることだ。ここでは取り上げなかった『ザ・シェフ』も同様だ。嫌らしい言い方をすれば、どちらの料理(飲み物)がより優れているかということを問題にしていると言ってもいい。しかし一巻を読む限り『クッキングパパ』はそういった比較を行わない。比較を行わない以上、上述の料理とそれにともなう満足感の関係性の問題は前景化しない。この辺りのことがid:Louisさんが「ジャンルが違う」とお思いになった理由かなと思う。

*1:正確にいえば城アラキ原作のものは美味さの比較の可能性を前提としていないのではなくて、それを前提としつつ、「いや、でも本質的にはみんな美味いのだ」といっている。その意味ではあらかじめ比較をしない『クッキングパパ』とは異なると思う。