グルメ漫画の話その1

グルメ漫画が結構好きで、実際には料理とかにあまり興味がなく、なぜ人は何かを食べなければ生きていけないのだろうとか考えるが、よく読む。まあよく読むっつっても素人が暇つぶしに読む程度なのでたいしたことないのだが、いくつか読んだのでここに何か書きたくなった。

話の前提として「グルメ漫画とは何か」といった類いの問題にぶつかるが、そういった話をするといろいろ面倒くさいので、今回は自分が読んだものを「グルメ漫画」と勝手に名付けて話を進める。読んだのは、『江戸前鮨職人きららの仕事』『築地魚河岸三代目』『ラーメン発見伝』『食キング』『食わせモン!』『華麗なる食卓』『焼きたて!! ジャぱん』『スーパー食いしん坊』(文庫版、より抜きっぽい)『珈琲ドリーム』『ソムリエ』『ソムリエール』『バーテンダー』『神の雫』、あと『美味しんぼ』ちょっとだけ。『ミスター味っ子』とかは昔読んだが、パスタをゆでるのにガラス窓にくっつけるのと、弁当箱に串を刺して温めるのぐらいしかおぼえていない。『珈琲ドリーム』から『神の雫』まではタイトルを見てもわかるように料理ではなく飲み物がテーマになっているが、ここでは一緒に扱いたい。なぜならここで問題にしたいのは、味覚だからだ。「視覚以外の感覚をいかに表現するか」というのは漫画における重要なテーマだと思うが、その中でも味覚というのは聴覚、というか音楽(『To-y』『Beck』『アンコールが三回』とか)とともに漫画において頻出するテーマだと思う。ただ聴覚と違って味覚は合わせ技がききにくい。つまりライブだったらライブのシーンを描けばいいわけだが(つまり視覚との合わせ技)、味覚はそう簡単にはいかない。そのあたりについてはおいおい。

これらを読んでみて、大雑把に二つのタイプにわけられるのかなと思った。ひとつは味の優劣を競うタイプのもの。そしてもうひとつは味の優劣というよりも、その料理なり飲み物を取り巻く人間模様というか、そういったものをきっかけとして展開される物語を記述するといったタイプのもの。少年誌タイプと青年誌タイプといった感じかな。まあ例によって両者の中間に位置づけられるものも多いだろう。『美味しんぼ』なんかどっちに分類されるのかな。まあそれはともかく、たしかwikiには『包丁人味平』が初の料理漫画だとあるので、勝負をしたりする少年誌タイプが先に生まれたのかな。ただどうなんだろう、現在では何というかビッグコミック的というか、(勝負するしないにかかわらず)比較的知識としてもまとも(に思える)ものが披瀝されていて、読んで勉強になったとか思うようなものの方が多いのではないかという気がする。

で、知識って何かって話になるのだが、単純化して言うと、おそらく修辞学と歴史に分かれるのかなと思う。ここで僕が考える修辞学とは、表現と感情を規約的に結びつけた上で、その表現をいかに操作、解釈するかということだ。例えば演劇で言うならば、原初的にはこうこうこういう表現をすることでカタルシスを観客に与えることができたのかもしれないが、次第に「こうこうこういう表現」がそれだけである種の規範として流通するようになり、じゃあ例えば現代そういう表現を行えば原初的に想定された感情を与えることができるかと言えば、そういうことは問題にならない。もちろんそういう感情を受けることは十分あり得るが、それとは別にそういった表現が独立してすでに流通してしまっているということが重要だ。そういった表現の問題が『築地魚河岸三代目』におけるいわゆる目利きだ。目利きとは味の修辞学であるということができると思う。これは非常に重要なことだ。なぜなら、当たり前のことだが、商品を実際に食べて確かめちゃまずいからだ(主人公は実際にそうしちゃっているのだが)。食べることなく、あるいは商品を(解剖などして)損なうことなく、いかに味や鮮度(おそらく両者は必ずしも一致しないだろう)を見極めるか、という問題に直面したとき、味という感覚を種類によってそれぞれ異なる目利きのポイントと規約的に結びつけ、その表現を分類してゆくという知識は不可欠となる。ここで注意しなければならないのは、目利きという知識を獲得することによって何が得られるかということだ。厳密にいえばそれは「うまいものが食べられる」ということではない。一言でいってそれはリスク管理だ。修辞学と感覚、感情との関係は常に規約的なものでしかない。したがって修辞学が扱う記号の先に特定の感覚があるということは保証されてはいない。有り体に言って何をうまいと感じるかは人それぞれな訳だ。より重要なことは、目利きおよびそれを行う仲卸にしたがって手に入れた商品が料理人やすし職人そして彼らの客に満足を与えられるかどうかだ。この作品の中で「仲卸なんてピンハネしているだけだろ」といったような不要論がいわれることがあるが、この修辞学によるリスク管理という点はその不要論に対するひとつの有効な反論となる。もうひとつの有効な反論はコネクションによるリスク管理だ。仲卸の使命は顧客にそれ相応の質のものを安定的に供給することだが、扱うものが自然のものである以上、不漁のときもあるだろうし、また地方のマイナーな商品であれば東京では非常に入手が困難なものもあるだろう。そういった問題に直面したときに、築地(の内部および外部)のコネクションが有効に機能する。実際にそういうことが行われているのか知る由もないが、主人公は築地ではほとんど流通していないものを手に入れるために金沢やら長崎やらの魚河岸に出張したりする。これらすべてのことがリスク管理に繋がる。そして一般的にいってリスク管理は結果(この場合は客がうまいものを手に入れられるか、もっといえば客がうまいと思うか)が不確定なものであるという前提のもとで成り立つ。そう考えると「旬」ってものも修辞に伴うリスク管理のひとつなんだろうなあとは思う。
そしてもうひとつの知識は、歴史だ。まあ「文化」ともいうかもしれない。この点についてはやはり『美味しんぼ』ということになるのだろう。まあ本当にまだぱらぱらとしか読んでないので(最初の数冊と昔かかりつけの歯医者にあったもの、何巻か忘れた)wikiとかに頼らざるを得ないが、それによると食文化に関する問題というのはかなり重要になっている。僕が読んだのは確か刺身にマヨネーズをつけるという話。純粋に味だけで考えるとかなりうまいとある。しかしそれではあかん、ということらしい。刺身に醤油をつけて食うというのは、それこそ(大げさに言えば)歴史的な積み重ねをへて編み出されたものであって、刺身にマヨネーズというのはそういった「文化」を踏みにじるものだと。ここで重要なことは「文化」が味覚よりも優先されているということだ。僕が読んだりほかの人にきいたりした限りだと、この作品ではそういった味覚よりも、それを取り巻く空間というかもてなしというか、そこに至った歴史的な重みとかすべてを味わうことによる快楽として料理を位置づけているようだ。
こういった歴史という知識は飲み物系のグルメ漫画、とりわけ城アラキ原作による漫画において非常に重要な意味を持つ。「歴史」っていうと大げさで、「いわれ」とかいった方がいいのかもしれない。たとえば『バーテンダー』においては、バーは客が抱えて持ち込んできた物語と、そこで出されるカクテルが抱えている物語(いわれ)が出会い交錯する場として描かれている。まあ正直飲み物系は主人公が実際につくったりしないことが多いので(まだ読んでいないが『夏子の酒』はそうではないのかな)実際に味とかを前面に出すのは厳しいのかもしれないが、少なくとも城アラキ原作のものについては「味よりも場、機会」ということは意識的に描かれていて、その上で歴史やいわれというのは大きな役割を果たしているだろう。とりあえず『ソムリエ』の台詞を引用しておく。

そう…
ワインにもまずいワインなどないのです
あるのはただそのワインと出会うにふさわしい「時」だけ…
ソムリエ』第01巻、p.222

これらの作品で指摘できることは、味の良し悪しを価値の基準におかない、ということだ。まあ『美味しんぼ』については一応対決の形式をとっているから単純化することはできないかもしれないが、少なくとも味の良し悪しにこだわりすぎて文化を軽視してはいけないよ、的な教えはかなり意識的に盛り込まれてはいるということは指摘できるだろう。原作者が政治的な主張に偏るという指摘がネットで結構見られるが、そのこと自体は上に述べた意味で間違いだとは思わないし、むしろ必然的でさえあると思う。文化をどう扱うかという問題はしばしば政治の問題とかかわるからだ。そしてその主張の中身がどうかということについてはここではどうでもいい。
それはともかく、ここまでグルメ漫画において味そのものよりも優先されるものとして修辞学と歴史によって構築される知識をあげた。便宜上この二つをかなり無理矢理切り離して考えてきたが、いうまでもなくそれらは深く関連している。修辞とは歴史的な積み重ねによって構築されるものだからだ。いずれにしても人それぞれであって客観性のない味覚というものの上位に知識をおくことでこれらの物語は成り立っているということはできると思う。
この点に関しては最後にひとつだけ挙げなければいけない作品があって、それが『ラーメン発見伝』だ。「ラーメン」ということが重要だ。ほかのグルメ漫画の題材と比べて歴史的な積み重ねはほとんどなく、それゆえ味覚の上位におくものがないように見える。しかしこの作品では「ビジネス」をそこに据えることによって、上に挙げた作品たちと一線を画している。何が一線を画しているかというと、上に挙げた作品にかかわらず、少なくとも僕が読んだほとんどすべてのグルメ漫画(僕のグルメ漫画の定義からしたらこの表現はおかしいのだが)において味の微細な差異を識別できる「よい食い手」がいて、それによって成り立っており、そのことによって例えば『華麗なる食卓』における次のような台詞:

料理に込めた想いは…
絶対相手に伝わる…!
華麗なる食卓』第15巻、p.130

つまり料理によるコミュニケーションが可能だという(僕からしてみたら)幻想すら成り立ってしまうのだが、この作品においてはビジネスである以上「悪い食い手」を相手にしなければならないということだ。この作品では主人公のライバルであるコンサルタントによる重要な指摘がある。それは「多くの客は料理を食っているのではない、情報を食っているのだ」というものだ。非常に重要な指摘だが、十分ではない。というのは、情報を取っ払って純粋に味覚のみで料理を食うということは不可能だからだ。それは上に挙げた他の作品によって間接的に伝えられることでもあるだろう。まあそれはともかく、こういった客を相手にするにあたって重要なことは、うまいものを求めて味を追求しているだけじゃだめだ、ということだ(実際にこのコンサルタントはラーメン屋も経営しているが、逆にそれほどうまくないものをつくることで商業的に成功する)。そういうことを前提とした経営上のノウハウというものが他の作品における「知識」に取って代わる。そしてこういったノウハウを支えるのは作り手の料理人としての実力というよりも、むしろ一発屋的なアイディアであり、客の舌を惑わす情報をいかに利用するかということだ。この作品の新しさははじめて明確にビジネスという観点を導入することによって(物語上も料理そのものにおいても)味覚が優先順位の一位には決してならないということを宣言したというところではないだろうか。もちろん明確じゃない形でなら上に挙げた作品はすべてそうだと思うが。

こんなわけで、かなり強引な読み方かもしれないが、グルメ漫画においておいしさという価値を解体していく作品群があるということはできるのだと思う。「○○だから××は美味い」とあるとき、○○という部分は知識だ。これらの作品群はこの○○の部分を伝えることで味覚という視覚的でない感覚を代替表現した、あるいはその不可能性を表明した、ということができるかもしれない。

もちろんそれだけではない。グルメ漫画にはもうひとつ別の大きな流れがある。まあ言わずもがなかもしれないが、それについて次のエントリーで書こうと思う。なんか長くなりすぎた感があるので。