四月はじまりのアニメその他

最近アニメを見る機会は激減してしまった。1月はじまりのものはいくつか見終えることができたが、まだ見終わってないものとか(00とか)、見終わるのに難儀したものとかあってちょっと大変だった。その中でも『のらみみ』はよかった。なんか続編が決まったようで、それは見るでしょう。そんなわけで先が思いやられるのだが(かえっていいことなのかもしれないが)まあそれでも4月始まりのもののうちいくつは見るだろう。まだ全部で揃ってはいないが、とりあえず今の時点で第01話を見たのは『コードギアス R2』『マクロスF』『RD 潜脳調査室』『図書館戦争』ぐらいかな。あと『ドルアーガの塔』も見たか。これについては見続ける自信がない。まあ最悪前者二つについては見続けるとは思う。あとたった今『カイバ』を見たが、完全にイミフ。でも『ケモノヅメ』は面白かったので見る。

マクロスシリーズについては多分一通り見たと思う。その上で『マクロスF』では河森正治的な世界なり生なりの認識がどのように展開されるのかなという点に注目するのだと思う。この点ではマクロスシリーズは一貫していたかなと思う。正確にいうと一貫したテーマのもとに思考が発展していったなという感触を受ける。そして『マクロス II』がどの点において逸脱していたかということもわかる。繰り返しここで述べてきたことだが、マクロスにおける河森的問いとは、いかに戦わないか、ということだ。ファーストシリーズでは得体の知れない敵(の一部)と手打ちをすることになる。劇場版では歌が戦争を終結させるシーンがクライマックスとなる。まあちょっと『マクロスプラス』についてはおいておくとして、歌は戦いと対立している。見方によれば歌が戦いを終わらせるということを示すことで争いを集結させることの不可能性を戯画化しているといえなくもない。この観点において『マクロス II』は逸脱している。確かそこでは歌は兵器として使われていたと思う。これは河森的な考えとは全く逆ではないかと思う。歌とは兵器ではなくて、変な言い方かもしれないが、「戦争をしないための武器」のようなものだ。この違いは大きいと思う。そしてそれをはっきり示したのが『マクロス7』だ。ぼくがこの『マクロス7』を見て感じたファーストシリーズとの一番大きな違いは、前者に至ってネゴシエーションがなくなったな、ということだ。バサラが「何でわかりやがらねえんだ」というとき、歌と歌に込められた想いのようなものの一対一の対応を前提としている。だから歌を歌えばわかるはずだという確信がバサラに生まれるのだ。これは言い換えればネゴシエーションの不必要性を示している。ネゴシエーションとは言葉と言葉に込められた意図やら意味づけやらがわからないから行われなければならないことがらであり、異なる利害をもつがゆえに必要な擦り合わせだ。こういった両者の間のズレと表現するものとそれによって表現されるべきものとのズレがあるがゆえに対話が成り立つのではないだろうか。言い換えれば、極端な言い方をすれば「伝わった」ということをもって対話というのではなくて、「伝わらなかった」ということをもって対話というのではないだろうか。あるいは「伝わらなかった」にもかかわらず起こりうる出来事を対話というのかなとか思う。id:nuryougudaさんはトラックバックで『マクロス7』における対話について語っておられるが、むしろこの作品で示されているのは対話の欠如なのではないかと思う。

河森的問いを突き詰めると対話を必要としなくなるのではないか。そしてその前提には対話をするとされる人々がみな共有しているはずであるある種の目的というか、「善きもの」への信頼があるように思える。このことが彼にとってはエコ的なものと結びついているのだろう。そしてその限りにおいて敵はいない。なぜなら一方にとっての「善きもの」は他方にとってもそうだからだ。戦おうとする者は「悪い」からではなくて、理解が足りないからだ。逆に言えばそういった自分たちも共有しているはずの「善きもの」を理解すれば、戦う必要などないということがわかるはずだと。だからバサラは「なんでわかりやがらねえんだ」と嘆く。

こういった問いが『マクロスF』ではどう展開されるのかというのが興味の中心かな。