ブレインズ・ベース『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』

たしか『天元突破グレンラガン』とかについて多くの人がゲッターロボとの関連について語っていたと思う。その指摘がどうかはともかく、何でそんな古いアニメのことをみんな知ってんだ、とか思っていたけど、結構最近になってリメイクされていたらしい。これがその一つ。ニコニコとかを見ていて思うことだが、ロボットアニメというのは知の継承というものがきわめてスムーズに行われるジャンルだと思う。『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』のようなリメイクもそうだが、やはりなんといってもスーパーロボット大戦シリーズがでかいと思う。「スパロボ廚」という人種が存在するぐらいだ。ちゃんと調べていないがこのゲッターロボスパロボに参戦しているのではないだろうか。僕はスパロボなるものをやったことも見たこともないのでよくわからないのだが、想像するに、いろんなロボットが一堂に会して戦ったりするのだから、物語におけるロボットの位置づけとか機能とかはいわば換骨奪胎させられてしまい、結果的に熱さだけが残るのではないかと思う。つまり「燃え」を求める人にとっては非常にスパロボは重宝するものかと。いずれにしても本気でロボットアニメを考えるならスパロボは外せないだろう。

というわけでこの『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』だが、こういったアニメって見てる人がどれだけ熱くなれるかにかかっていると思うのだが、僕はあんまりそういうことがないので、やや厳しかった。まあでも全部で4話なので乗り切れた。とはいえなんだかんだいってオープニングの巴武蔵が死ぬシーンは何度も見てしまったな。で、思ったのは、敵と味方との相対性ということだ。最初にいきなり巴武蔵が死んでしまう。要は自分が犠牲になって爬虫人類を倒すわけだが、「血も涙もねえ恐竜どもは滅んでしまえ」的なことを言って散る。いや別に血も涙もなくても生きる権利はあるだろ。自分に危害を及ぼすものに対しては自衛する権利はあるが、それは恐竜どもを全滅させていい理由にはならない。もちろんこのシリーズからゲッターロボを見た僕がそう思うだけで、以前のシリーズを見ていると恐竜どもの非道さは明らかなのかもしれない。しかし全滅すべきだ、というのはどう考えてもおかしい。その意味で巴の方がよっぽど狂っているように思える。まあこういう言い方は正確ではなくて、実際は両方とも互いを絶滅させたがっているのだから、両方とも狂っているといった方がいいのかもしれない。
敵とはなにか、という問いにおいてエポックメイキングだったのはやはり『機動戦士ガンダム』だということになるのだろうか。教科書的にいえばこの作品において初めて敵なるものが単に排除する対象ではなく、味方と同様に感情移入の対象でもありうるようになった、ということになるのだろうか。一応付け加えておくが、僕にとって「感情移入」なるものは非常に疑わしいものである。というのはこの語は現在では作品外的な効果を示すものであるからだ。大昔はそれは修辞上の決まり事であったとは思うが。まあそれはともかく、おそらく『機動戦士ガンダム』における敵、ということでいえば、その特徴は敵にも味方と同様に因縁があり歴史がある、ということだろうか。それゆえ敵は単に排除の対象ではなくコミュニケーションの対象となる。それでは『ガンダム』以前はどうだったのだろうか。この点については僕にはほとんど知識がないので見当違いなことをいってしまうかもしれないが、やはり「単に排除の対象」だったのだと思う。敵には歴史がない、賭するものがない、と。
さて『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』についてはどうかというと、少なくとも僕には爬虫人類にも義があるように思える。なぜなら彼らは生存権を主張しているからだ。近代法でも自分の生存を守るために他者の生存が危うくなったとしてもそれはある程度許されていると思う。爬虫人類たちは異星からやってきていたずらに地球を侵略しようとする者ではない。もともと地球に住んでいた者であり、彼らからしてみたら人類こそもともとの住処を彼らのいないうちに奪った者となる。そして重要なことは、爬虫人類に人類との言語的コミュニケーションの能力があるとしたら、折衝の可能性、もっといえば手打ちの可能性があったということだ。少なくともこのシリーズにおいては両者がつねに対立しているということに理由は見出せない。あらかじめ対立していて最後まで対立している。それは例えば前回みた『伝説巨神イデオン』のように、両者の立場上の不可避的な誤解によって生じる対立ではない。

この点がこの作品と『天元突破グレンラガン』との違いなのかなと思う。後者においては人類は当初単に地上での生存権を主張した。まあ最初に襲ってきたのはたしか獣人だったので、自分の身を守るためには戦うのはある程度しょうがない。しかし後に獣人たち、少なくとも螺旋王は単に人類の地上での生存権を奪うために戦っていたのではなく、アンチスパイラルの目にとまらないように人類たちを地下にとどめようとしていたということが分かる。つまり人類は自らの生存権を主張していたのだが、その生存権を奪おうとしていたのは獣人たちではなく、アンチスパイラルだった、ということだ。そして本質的にはアンチスパイラルさえも彼らの生存権を奪おうとしていたのではない。まあそれはいいとして、問題なのは獣人と人類を敵味方に分かっていたのは、単に保持している情報の差だということだ。螺旋王は人類に比べてより真実に近づいていた。そして螺旋王を倒すことによって人類、グレン団は真実であるところの情報を共有することになった。だから獣人と人類は同じ螺旋族として共闘することになる。
だが『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』においては共有すべき情報はほとんど意味をなさない。なぜなら明らかにされるべき謎は存在しないからだ。爬虫人類たちの目的や人類を攻撃する理由などはすべて明白だ。とはいえ『ガンダム』以降のいくつかの作品のようにそういった明白さを前提として両者の間でネゴシエーションが行われることは決してない。このようなことが「燃え」を可能にする。何度もいっていることだが、「燃え」とはことがらが明白となり、迷いが失われることによって可能になるからだ。おそらく最近の作品の多くはこういった「燃え」を実現するにあたって、ある種の決意を表現しようとしてきたと思う。たとえば「戦うことは他者を傷つけることであるが、愛する者を守るためにあえてその罪を背負う」とかいったような。他者がどんな者であれそれを傷つけることは許されないということは、その他者の生存権は認めなければならないということだ。しかしこの『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』はそうではない。おそらく『ガンダム』以前の作品がそうであったように、そういった葛藤およびその克服は決して表現されない。互いに他者の生存権は認めない。そのあたりがお互いに狂ってるなと思った原因なんだと思う。しかしこういったことが「燃え」を実現するためには非常に効果的なんだろうと思う。潔いといえば潔い。じじつ最初の巴武蔵のシーンだけは繰り返しみてしまった。

それはそれとしてこのゲッターロボを含め鉄人28号とかジャイアントロボとか繰り返しリメイクされるロボットアニメは多い。もうちょっとこの辺りの作品を見てみるのもいいかもしれない。