赤根和樹監督作品その1

なんかいろいろあったのだがいろいろオワタのでまたなんか書こうかなと。

というわけで最近、というかだいぶ前から見たのが赤根和樹監督作品。とりあえず彼の監督作品はすべて見たのかな? 発表順から『天空のエスカフローネ』『ジーンシャフト』『Heat Guy J』『ノエイン』。『ノエイン』についてはかなり前なので忘れてきているが、やはり一番よかったのは『Heat Guy J』だな。この作品が興味深いのは、僕がこのブログでいってきたことと関連している。単純化していえば、誰かに条件づけられている平和と、平和がある程度損なわれるかもしれないけど誰にも条件づけられていないという自由のどちらをとるかという物語といっていいと思うが、この作品では後者が選択される。これは『スクラップド・プリンセス』において示された選択とは全く逆だ。常識的にいって、つらいことはあるかもしれないけど他者による条件づけを退ける、というのが近代的な態度だと思う。例えば『TEXHNOLYZE』でもそういった条件づけを失われるという過程が描かれていたと思う。その意味でいうとこの『Heat Guy J』は全く逆の選択をしたといえる。つまりこういうことだ。確かに自由と自立を獲得することは立派なことであるが、だからといって現状で努力して獲得された幸福を損なう権利があるか、ということだ。まあそういう考え方もあるかなとは思う。こういった二つの対立する考え方は解決することはないと思うので結局は数の問題となるだろう。つまりどれだけの人がそれを支持するか。その点でいうとこの物語では非近代的な態度の方が多くの支持を得ているだろうという印象を与えている。何が近代的な自由と自立を阻んでいるかというと、この物語ではライフラインを舞台となる町の外部にいる権力者に握られているということなのだが、こういったライフラインの問題というのは往々にして自明なものとなっていて普通に生活している人たちにとっては意識化されないものだからだ。まあ端的にいえば自由とか自立とかって普通に生活している人にとってはどうでもいいことだ。その点に関してはリアルな感じはした。まあ見てよかった作品の一つではあると思う。

で『ノエイン』だが、いわゆる「セカイ系」に含まれる作品の中で結構有名なものだと思う。前評判によると、セカイ系とかいうよりも戦闘シーンや動きに関して評価が高いようだ。またウィキペディアによると監督の赤根和樹の意向で毎回自由に作画をさせているらしい。確かによく見ると結構キャラの顔が変わっていたりする。想像するに、キャラの作画が変わることを「作画崩壊」と呼ぶならば(もちろんこの言い方は正しくないと思うが)、そういった作画崩壊は結構最初のキャラデザによっているのではないかと思う。たぶん「萌え絵」というものは作画崩壊が目立ちやすい。だけどこの『ノエイン』はそういった萌えのようなものを回避しているような印象を受けるので(主人公の声優のキャスティングに関しても)、逆にある回で萌え絵っぽい作画がでてくると作画崩壊とは受け取らない。戦略的には萌え絵を描きたくてもキャラデザの段階でそういうのを出さない方がいいのかもしれない。『ニニンがシノブ伝』なんかもそうだ。要はキャラデザの段階で複数の作監が担当することを想定しているかどうかだ。まあそういう問題以前にこの赤根和樹という監督は萌えとか嫌いなような気がするが。
で、セカイ系について。『この醜くも美しい世界』を見た時も思ったが、セカイって狭いなあと。極端にいえば函館の小学生数人で完結している。ただ『この醜くも美しい世界』と違う点はなんか国家がよりはっきりと関係している点だろう。ただ、「セカイ」と登場人物との関係、という観点から見た場合、国家というものは「セカイ」にある種の実体性を与えるための口実のように見える。「セカイ」なるものにどう国家が取り組むのか、というのではなくて、国家が関与しているから「セカイ」なるものがあるんだろう、と。『イリヤの空、UFOの夏』もそんな感じだったと思う。そういうものを全く描かなかった『この醜くも美しい世界』よりはましだと思うが。
一般的にセカイ系とは個人とセカイなるものとの直接的なつながりと解されているだろうが、その直接性にはいろいろなタイプがあるだろう。真っ先に思いつくのが、主人公がセカイを救う、というものだ。『イリヤの空、UFOの夏』もそうだろうし、ある意味で『交響詩篇エウレカセブン』もそうだろう。そう考えると『エヴァ』はきわめて異質だ。おそらくこの作品は「主人公自身がセカイだ」というきわめてラディカルな結びつけ方をしているように思える。セカイはもはや主人公の外部に客観的に広がってはいないので、結果として世界を救うかどうかということは問題にならないし、TV版、劇場版どちらのエンディングも可能となる。まあたぶん他者との相互承認が可能かどうかによってエンディングが別れるのだろう。
で『ノエイン』に関してはというと、なんかよくわからないが、主人公だけがたまたま時空を操る能力(こういっていいのだろうか?)を身につけていたということなのだろうか。それが正しいのかどうか分からないが量子力学を援用して対象の客観性は観察者による観察に依存している、というようなことをいっているが、ということはこの作品は『エヴァ』と同じように「主人公自身がセカイだ」ということなのだろうか。ただ『エヴァ』のように関係性がどうでもいいというところまでにはいかない。あくまで(自分と)誰かのために行動する、という感じだ。まあ基本的に全然理解していないので突っ込んだ話はできないのだが、要するに『エヴァ』と比べて世界が主人公と離れている。セカイ系を対幻想の欠如と定義づけるなら、この作品は『エヴァ』ほど対幻想が欠如していない。多分対幻想の延長に『ノエイン』的なセカイがあるのだろう。このことはこの作品で前提とされているパラレルワールドと深く関係している。あり得た関係性の数だけパラレルワールドがあるからだ。だからこの作品において「セカイを救う」ということがいい得たとしても、そのときの「セカイ」は「地球」とか「人類」とかではなく今保持されている我々の関係性であり、そこから派生する可能な、そして幸福な未来の関係性だ。(とはいえ「人類」とかに甚大な影響を及ぼす陰謀的なものはあるのだが)書いてみてまあある意味普通のセカイ系なのかなと思ってきた。内容的にはセカイ系というのは対幻想の全面的な欠如ではなくて、あるレヴェルでの対幻想の欠如なのだろう。でもなんだかんだいってもこの作品は戦闘を見るものだと思う。

とりあえず長くなりそうなので続きはまた。