サンライズ『伝説巨神イデオン』

ロボットアニメがどうとかいっているくせに、富野作品を全く見ていないというのはどうなんだろう、ということは結構前から思っていた。それで何を見ようかということだが、やはり言及されることの多いものから見ていくのがいいと思う、がガンダムはちょっとなあ。テレビとかで芸人がガンダムについて語るのを見るたびになんか見る気しなくなる。あれはなんなんだろう。普段どんなに面白い芸人でもガンダムを語るときはたいてい面白くない。ジョジョ芸人もそうだが、このシーンは何巻、何話のどことか知ってたり台詞を覚えていたりするだけで、べつにたいしたこといってない。…という言い訳を用意したわけだが本当は長いものを見るのがきついだけだ。ファーストはちょっと短いがみんなだいたい50回ぐらいある。そんなことをいっている僕はたぶんアニメを愛していないのだろう。ガンダムシリーズのうち富野作品だけでも『銀河英雄伝説』正伝外伝を超えるんじゃないだろうか。
まあそれはともかく、比較的短く、なおかつ言及されることの最も多い部類に入るであろう『伝説巨神イデオン』を見ることにした。最近よく拝見している囚人022さんのブログでこの作品がしばしば言及されるので興味を持ったというのもある。囚人022さんの個人的ベスト1は発動編と『ブレンパワード』とのことだ(超・個人的ベストアニメ10 )。よく拝見しているブログの方がおっしゃると(人にはオススメできない、とのことだが)気にならざるを得ないので、次は『ブレンパワード』かな。ガンダムについては発表順に見るべきか物語のクロノロジーにそってみるべきか悩んでいるので、ちょっと保留。

というわけで本編についてだが、この作品についてはネットをうろうろしているといやでも結末については知ってしまうので、リアルタイムで見ていた人と比べるとあまり衝撃は受けなかった。というより、テレビシリーズ後半でばたばたと人が死んでも「どうせみんな死んじゃうんだから…」といったようなある意味ニヒリズムに陥ってしまって、それぞれの死にはあまりショックを受けなかった。まあ僕は世代とか、リアルタイムであることとかを全く信じていないので、あまり問題はなかった。面白かったし。だがあんまりショックを受けなかったのはそれだけが理由ではなくて、おそらく僕はもともとそういう種類のニヒリズムは持っていたのかもしれない。つまりどうせ人間は死ぬと。それが業によるものであろうが、ある種の悲劇によるものであろうが、まあ死ぬ。だからそういったことにあまりシンパシーも覚えないし反感も持たない。ほかのどんな物語についてもそうだったと思う。それに僕はこの作品の結末は人間の業がどうとかそういう点から引き出されたものではないと考えている。
ロボットの問題なのだ。この点に関してこの作品はかつて『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』について僕がいってたことをすでにやりきっていた。なんか恥ずかしい。そして無知とは恐ろしい。つまり『機動戦士ガンダム』においてリアルロボットが始まったとしたら、『伝説巨神イデオン』においてスーパーロボットはある種の極点にたどり着いたということができるのではないだろうか。ここでも以前にいったようにリアルロボットとスーパーロボットの対称性が際立つ。つまり主体と手段との関係だ。リアルロボットにおいては人間が主体となり手段としてのロボットを使う。スーパーロボットにおいてはロボットが主体となり人間を操る。ただしギガンティックイデオンは決定的なところで異なる。それはいってみれば「本当の主体」はなにか、ということにある。ギガンティックは搭乗者の精神を侵して操り、結果的に人間を滅ぼそうとする。本当の主体はギガンティックそのものだということだ。しかしイデオンの場合はそうではない。イデオンはイデという無限力を分有したものにすぎず、イデオン自身が独立した意志をもっているわけではない。したがって本当の主体は実体化してはおらず、イデオンやソロシップといったものを通じて力を発揮しているにすぎない。ここにギガンティックイデオンの決定的な差異および物語の結末の全く異なる展開があるのだと思う。端的にいうと『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』においてはスーパーロボットの超越性が否定されたということだ。しかし超越性が否定されたときにスーパーロボットなるものが原理的に可能か、という問題は残る。だから僕はこの作品はスーパーロボットの不可能性を示した、と書いたのだ。そして『伝説巨神イデオン』においてはこの超越性が登場人物全員死亡という事態を可能にする。善いとか悪いとか関係ない。なんかギガンティック持ち上げ過ぎのような気がしてきたのでちょっと付け加えると、そういったスーパーロボット的な超越性を拒否したところに果たして平和とか自由とかがあるか、って問題はもちろんある。この作品全体に感じたことであるが、人間の善意を信じすぎている。だいたい決闘戦に負けたからって一国が勝った側に協力するだろうか。もっといえば統一国家なんて可能か、ということだ。本来ならばそういった超越性を否定したときにおこるアノミーがあるはずだ、ってこんなことを考えるとロボットアニメじゃなくなってしまうからしょうがないのかもしれない。
しかしこの作品をリアルロボットの始祖とされる『機動戦士ガンダム』と同じ人が作ったというのが興味深い。これを書く前に『ブレンパワード』の第01話だけ見たのだが、そこではロボット(といっていいのか)はなんというか生命体のような感じだった。たしかこれはエヴァのあとだったからそういうことも関係しているかもしれないが、もしかしたら富野作品の多さというのは彼が思いついたロボットの種類の多さなのかもしれない。で、まだ『伝説巨神イデオン』しか見ていない僕の勝手な想像なのだが、彼はロボットを通じて何かを思考しようとしたのかもしれない。こういった態度は例えば押井守や(僕はまだ『装甲騎兵ボトムズ』しか見てないが、おそらく)高橋良輔とはかなり違うのではないだろうか。この二人はおそらくロボットを物語の中に組み込んでいくためにはどうしたらいいかを考えたのだろう。そのためにはロボットに物語が依存する、といったかたちは避けたい。つまりロボットを思考したのだ。こうしてリアルロボット路線が追求された。それに対して富野はまずこういうロボットがある、といった設定から始めているように見える。その上でどういった人間模様が展開されるかということが問題になるのではないだろうか。ある意味でメタリアルロボットだ。つまり富野的ロボットは(イデオンでさえ)手段なのだがその主体は富野自身だと。彼自身が思考するための手段だと。それに対して前の二人にとってロボットは彼らの思考の対象だ。このことは(抽象的に抜き出すならば)富野作品の受け手の異なる二種類の態度を生むことになる。一方で富野作品を人間ドラマとして読み取る態度。このような態度においてはロボットはいわば背景であり、その上で人間の感情とか行為を思考する。そしてもう一方はロボットに対するフェティシズムだ。端的にいえばガンプラ。この点に関してはビジネス的な観点をぬきにして考えることはできないが、後のリアルロボット系のアニメにとってはある種のアポリアとなる。『装甲騎兵ボトムズ』ではいかにこのフェティシズムからロボットを切り離すかということが問題になったはずだ。そのためにロボットをボトムに位置づけた。玩具メーカーの出資を受けなかった『機動警察パトレイバー』はビジネス的にこのアポリアと戦ったということになる(それを極限にまで突き詰めようとした押井のレイバーのデザインは却下されたようだが)。

それはともかく、富野がロボットを思考したのではなくて、ロボットを通じて何かを思考しようとした、というのは当てずっぽうにしてもかなりいい線いっているのではないかと思っている。以前爆笑問題の番組に富野がでてきて『エヴァ』を自分が作りたかった的なこと、そしてすべてのロボットアニメ(単にアニメ、だったかもしれない)の歴史を自分で作りたい的なことを言っていたが、上のように考えると納得がいくのではないだろうか。『機動戦士ガンダム』作った人が『エヴァ』を作りたかったってあり得ないだろ、とか思ったが、ああいうロボット(的なもの)も思考の手段としてはありだったと。『ブレンパワード』のロボット(的なもの)もエヴァを意識したものなのだろうか。いずれにしてもこの言葉は単にクリエイターとしての創造の意欲を示しているだけではないだろう。まあそのあたりはほかの富野作品も見て正しいかどうか判断しよう。