マッドハウス『TEXHNOLYZE』、manglobe『Ergo Proxy』

TEXHNOLYZE』『Ergo Proxy』をまとめて。ぱっと見二つの作品に共通しているのは両者ともキャラの目が小さいということだ。小さいというより、実際の人間の顔に近いということだろうか。正直言って多くのアニメ(とマンガ)でキャラの目が大きすぎるのがちょっと気持ち悪かった。正確にいうと黒目がでかいのが気持ち悪い。最近は慣れてきたが、エロゲ原作のアニメとかで黒目がでかくて内容とは関係なくなんか怖かった。総じて黒目がでかいキャラってうつろな感じがする。マンガにもそういうのが多いが、アニメではなぜかより気味悪い。動くからだろうか。
まあそれはともかく前者は安倍吉俊によるキャラデザ。これで彼のキャラデザによるアニメは全部見たことになるのだろうか。小中千昭による構成とあるので、『serial experiments lain』を想像させる。安倍のキャラは目が大きくなくてよい。『Ergo Proxy』のほうは佐藤大の構成。ちらっと2chとかをみた感じだと、彼の評判はあまり良くないようだ。まあ2chの住民に好かれないタイプだとは思う。今回これをみて2chの住民たちと意見をともにすることがちょっとできたと思う。登場人物の名前についてだ。ウィキペディアとかをみればすぐ分かると思うが、もうなんかひどい。ドゥルーズとかガタリデリダクリステヴァとかいったキャラがでてくる。もう本当に勘弁してほしい。第01話で主人公の女性がそのキャラたちの名前を叫ぶシーンがあるのだが、そのシーンには悪い意味で鳥肌が立った。再びいうが本当に勘弁してほしい。せめてファーストネームにしてくれと。ジルとかフェリクス、ジャック、ジュリアとかならまだいい。三たびいうが本当に勘弁してほしい。

まだ共通点はある。まず第一に暗い。内容とかそういうことよりも画面が暗い。その意味でみるのが大変だった。そして何よりも内容、というかテーマ、が同じだと感じた。両者とも同じ問いを提示しているのではないだろうか。そしてその問いは以前見た『スクラップド・プリンセス』にも共通していると思う。
その問いは一言でいうと、今いる世界は(誰もそれを意識しないかもしれないが)何ものかに条件づけられている。ではその何ものかとはなにか? ということだ。もっと単純化してしまうと、それは外部の問題であるといえるだろう。三つの作品ともに、物語当初は外部は不可知なものだった。あるいはそもそも外部の存在は前提とされていなかった。そして内部、主人公たちが生きている世界はそれなりの秩序を保っているように見えていた。『スクラップド・プリンセス』ではピースメーカーによって地表のべつの場所から隔離されることによって物語の舞台は文明は後退したもののそれなりの平穏が保たれている。『TEXHNOLYZE』では物語の舞台は上の世界に捨てられた人たちが集まる街で、貧困や犯罪は多いが上の世界から人(吉井)にいわせれば「生命力に溢れている」。また『Ergo Proxy』では大気汚染におかされた外界から身を守るために作られたドームの中で暮らす「市民」は豊かな生活を送っていられる。そしてその市民たちはこのドームがどのように誰によって作られたか知ることはないし、また外の世界がどういうものかも知らない。したがって物語の展開は外部が徐々に明らかになるということに他ならない。

この観点からすると『スクラップド・プリンセス』はどうであろうか。最後にマウゼルはパシフィカに鳥かごの中の平和をとるか、鳥かご自体を取り除くかという選択を迫る。そしてパシフィカの望みにしたがってマウゼルは物語の舞台を隔離させていた鳥かごを取り除く。そのためにそれまで享受されてきた平和は失われるかもしれないが、この作品の中で重要なのはそもそもそもそもなぜ隔離されていたかということだ。そもそもピースメーカーに敵対していたドラグーンのいうところによると、大昔、人類が高度な科学技術を誇っていた頃、地球外からなぞの敵がやってきて、その敵が強力だったのでいわば外敵から身を守るために一部の地域を他の地域から隔離した。しかしその敵とはなにか? ピースメーカー自身がいうように、その敵について誰も何も知らない。このあたり『七夕の国』を思い出させるが、いずれにしても実体はよくわからない外敵におびえてピースメーカーたちは無意味に人類を隔離していたということになる。そしてピースメーカーは保護の名目で人類を外から隔離していたということになる。だから上に述べたような選択を迫られることになるのだ。外から限定されることによって保たれる秩序や平和というものはある。しかしそれは「限定」という不自由によって条件づけられているということだ。限定(不自由)によって内部に閉じ込められることによる平穏よりも、争いを招くかもしれないが自由を望む、というのがこの物語だ。

それに対して『TEXHNOLYZE』における外部とは流9洲と呼ばれる地下の街に人々を追いやった地上だ。流9洲にすむ人々は追いやられて何世代もたっているので地上がどういう場所かみなほとんど知らない。そんな流9洲に一人の男が地上からやってきて、その彼が争いの種をまくという話だ。テクノライズってのは機械化された義体のようなもので、義体化された人は義体化された箇所だけではなく、例えば視覚など他の感覚器官なども機械化される。で、このテクノライズのためにはラフィアと呼ばれるこけのようなものが必要で、これは人体の免疫機能を阻害してまあ機械と人体を馴染ませるものらしい。このラフィアは流9洲のある場所でしか採取することのできないもので、テクノライズというものが最新のテクノロジーで、この技術が唯一地上に資することのできるものであるとしたら、ラフィアおよびテクノライズだけが流9洲の存在意義であったということになる。
でこの流9洲に吉井という地上からやってきた男がいろいろ小細工をすることで諍いが始まる。この街には当初大きくわけて三つのグループがあり、マフィアのオルガノテクノライズに猛烈に反対している宗教団体のような集団の救民連合、そして愚連隊のラカン。だが次第に流9洲で貴族階級を構成しているクラースの住民たちがテクノライズを応用してシェイプスという軍隊を形成することでこの三つのグループをほぼ壊滅する。このシェイプスとは、テクノライズは通常からだの一部を義体化させるものだが、頭を残してすべてをテクノライズの技術で義体化させたほとんどロボットのようなもので構成された軍隊だ。こいつらから逃れるのと何らかの解決策を求めるために主人公は地上へ向かうのだが、地上は流9洲を支配しているのでも管理しているのでもない。そこはもはや何の発展もないゴーストタウンのような場所だった。図式化していうならば、自分たちの生きている街の外部がその街の生存を条件づけていると主人公たちは考えていたが、実はその外部は空虚な場所でしかなかったと。結局主人公は流9洲に戻り争いは止まず、カタストロフへと向かってゆく。

TEXHNOLYZE』においては内部から外部へ向かい、そして内部へと戻ってゆく、という運動、というか移動を抽出できる。その意味では『Ergo Proxy』においても同じ移動を見てとることができる。主人公のリル・メイヤーが生活するロムドというドーム内の都市は「死の世界」である外界から市民を守るために作られたということになっていて、そこにプラクシーと呼ばれる謎の生物が現れて、それをきっかけに主人公は外の世界へ行くって話。それをきっかけに、ってどういうことかというと、移民で主人公が保護観察しているヴィンセント・ロウという人が実はそのプラクシーというやつなのだが、過去の記憶を失っていて、まあ要は自分探しってやつだが、結果的にそれにつきあうかたちでリルも旅にでる。その過程でヴィンセントの出自とともにロムドという街そのものについての謎も明らかになる。で、最後にはそのロムドに戻るのだが、ネタバレしてしまえばこのロムドという街、というかすべてのドームはプラクシーという創造主によって作られたものだった。そしてロムドの街はプラクシーであるヴィンセントとその分身との戦いの中で崩壊してしまう。したがって移動という観点からすると、内部から外部への移動がまずあり、後に内部へと戻る。ここまでは『TEXHNOLYZE』と重なるのだが、かえってくるべき内部=ロムドの街は崩壊してしまうのでその後また外部へと主人公は放り出される。街全体が崩壊してしまったから生き残ったいわゆる人間は主人公のリルだけだ。見終わってすぐの印象はようはリルだけが生き残るような話を作りたかったんかな、ということだ。

なぜこういった全面的な崩壊が可能なのか? たしかに『TEXHNOLYZE』においても流9洲という街は崩壊してしまったように見える。しかしそこで崩壊したのは秩序であって街そのものではない。それに対して『Ergo Proxy』における街、ロムドがあった場所には何もなくなってしまった。おそらくそれは創造主がいたからだ。『スクラップド・プリンセス』においても『TEXHNOLYZE』においても主人公の生きている環境に外部があって、それが大きな影響力を持っていたと見なされてはいたが、そういった外部が自分たちが生きていた場を作っていたわけではない。だが『Ergo Proxy』におけるドームはプラクシーという一つのはっきりとした可視的な存在によって作られたものだ。最後にプラクシーであるヴィンセントは自分は死の代理人だ、ということを言うが、誰の代理人か? という問いは避けているように思える。むしろプラクシー自身が主体的に行動している。もしこの問いを問うていったならば、プラクシーの背後には誰も存在せず、その空虚さが明らかになっただろう。このプラクシーたるヴィンセントは物語の当初記憶が失われて自分がプラクシーたることを知らず、自分は何者かということについて問い悩むわけだが、自分がプラクシーだと分かったとたんそういった問いは後退して閉まったように思える。プラクシーたる自分は何ものか、という問いは必要なかったのだろうか? この辺りの問いは回避してしまったように思える。もしこの問いを突き詰めていったら、『スクラップド・プリンセス』や『TEXHNOLYZE』に近づいていったのではないだろうか。
簡単にいうと前2作品において場はすでにあった。後者においては場は創造主によって作られた。言い方をかえれば『TEXHNOLYZE』は(最後に主人公が死んだかどうかはともかく)主人公が場に捨てられる物語だ。それに対して『Ergo Proxy』は主人公が場を捨てる物語だ。僕は前者のような物語により共感を覚える。後者は場、生の条件ともいえるであろう場を矮小化しているのではないだろうか。この点が『Ergo Proxy』において僕が(キャラのネーミングを除いて)最も違和感を感じたところだ。