演出の良し悪しの話

なんかみたものがたまりすぎていて何を書いていいかよく分からなくなってきたので、ちょっと一般的なことを。

ブログなどでアニメ評をみていると、演出の良し悪しとかが結構語られているが、みんなすごいなあとか思ってしまう。以前も書いたが僕はあらゆるメディアのリテラシーってものがないので、この演出が何を表現しているかとか、どういう効果をねらっているかとかあんまりよくわからない。

で、ここからが言い訳になるのだが、ある演出がいいとか悪いとかいえるためにはおそらくその基準、および対象が必要だ。例えばこのシーンはあることを指し示していて、それを表現するのにこの演出はべつの演出よりもよりよい、とかより悪い、とか。まずこの表現の対象についてだが、それは自明なものなのだろうか。僕はそうは思わない。文学作品であれ絵画であれ音楽であれ、そこにあるのは表現しているものだけだ。だからおそらく批評が意味を持つ。それは表現されるもの、また表現と表現されるものを結びつけるものを「作り出す」からだ。僕が今敏について書いた時、このようなことを前提としていた。おそらく今敏は意味するものの意味されるものに対する圧倒的な優位性を信じている。だが事実問題としては、表現されるもの、語られるべきことがらは表現するものとともに、あらかじめあるように思える。そうでないとある作品について多くの人が語ることができなくなってしまうようにも思える。それはそうだろう、しかし、極端な話たとえば『オデュッセイア』が2000年以上もの間同じことを語ってきたと捉えられていただろうか。このことは以前萌えについていったこととも関連する。今日びだっこちゃん萌えるかと。もし演出の良し悪しが複数の受け手(もちろんそこに作り手が含まれていてもいい)の同意によって決定されるものであれば、そういった良し悪しについて語ることは作品を語っているというよりも、その同意の主体たる集団の証言でしかないと思う。後の世代の人はこういった証言から帰納してある世代なり受け手なりを浮かび上がらせる。つまり良し悪しをいうということはそういった価値を共有できるという集団なり立場に自分がいるということを証言しているにすぎないと思う。
もしそういったこととは別に良し悪しをいおうとするならば、基準を自ら作り出すしかない。僕はむしろより価値があって重要なのはこういった基準を作り出すことにあるのではないかと思う。はっきりいって良し悪しは印象で語れる。また古いアニメ(に限らないが)を語るときに世代に還元してしまう語り方はこういった基準を自ら作り出すことを怠った態度のように思えてならない。

まあ基本的に自分のブログになに書いてもある程度は自由なのだが。しかし僕自身としてはいろいろあるアニメの演出法などは知っておきたいなとは思う。しかしそのことと良し悪しを判断することはまた別問題だ。