サンライズ『THEビッグオー』

というわけで『THEビッグオー』。初見の印象はイミフ、って感じだったのだが、そのあと囚人022さんのブログからたどっていくつかレヴューなどを見て、そのあと第13話と後半の数話をもう一度見てなんとかここに何かかけるかなという段階に至った。まずレヴューを拝見した皆さんの意見はどうやら批判的なようだ。投げっ放し、ということなのだろうか。あと謎が明らかになってないとか、そういうことなのだろうか。僕としてはそれほど投げっぱなし感は感じなかった。これについては囚人022さんのブログを見て思ったのだが、前期後期に分けて見ることはせず、一気に全部見たからかもしれない。確かに第13話でヤマがきたなと思ったが、この時点で何らかの決着がつくとは全く思ってなかったのですっと通過できた。
ただそれだけではないかなと思った。僕はそもそも謎なんて明らかにならなくていいじゃん、とか思っているからだ。これは僕自身の傾向なのかもしれないが、物語よりもそれを成立させる何ものかに興味がある。それは制作会社がどうとか、監督がどうとかいう外的なことではなく、物語を支える内的な構造としてだ。謎が明らかにされなければいけないっていうのは物語上の規約だと思う。作る側としてはその規約に従うか従わないかを選択できるわけだ。つまりどっちでもいいわけだ。それにこれから述べるがこの作品には謎が決して解明されることがない、という必然性を持っていると思う。

というわけで、まず前提を。このこの物語が繰り広げられる都市であるパラダイムシティは演劇的な意味での舞台であるということ。舞台とはどういうことか。舞台上で何らかの役を演じる本質的な必然性はないということだ。誰か(演出家)がそれを認めるだけで足りる。通常、そういった役割は自分がそれまでしてきたこと及びそれをふまえた上での他者の認知、要は主観的、集団的な記憶が決定する。そういった一切合切の記憶、メモリーが失われたのがこの都市であり、この都市で生きる人々である。その意味で、このパラダイムシティは舞台である、ということだ。そして最も重要なことは、記憶を失った都市で町は機能しており、どうにか人々は生きているということだ。この町におこるある種のカタストロフは主に記憶を求める人たちによってなされる。
次に何人か重要な登場人物について。まず主人公のロジャー・スミス。彼は何を望んで何を行ってきたか。彼が行ってきたのは終始記憶の回復の拒絶であった。前半で彼および彼が操縦するロボット(メガデウス)であるビッグオーがやることは、結果的には失われたメモリーが姿を現すのを妨げること、そしてそれによって現在のパラダイムシティの均衡を保つことだった。メモリーとは都市の秩序を脅かすものだ。そして後半では、彼自身自らの記憶がないことによる不安について述べているが、それでも彼は記憶(メモリー)を取り戻そうとはしない。むしろ逆に自分は自らの意志で記憶を捨てたのだ、と宣言する。図式化していおう。自らが社会において演じる役割についての承認には二通りがある。過去へ遡行することによる自己承認、そして現在いる他者との間の間主観的な承認。実際問題はどちらかがかけているだけで大きな問題だろうが、この主人公は前者を切り捨てた。英雄的だといえる。もう一度いうと、彼の行ったことは、メモリーを明らかにしたり占有したりしないことによる秩序維持だ。
次。シュバルツ・バルト。彼はロジャーとは全く逆だ。はじめはジャーナリストとして、そして次第に狂人として(とウィキペディアにはある)、真実の追究の名のもとにメモリーを追い求め、それを暴露しようとする。ごく簡単にいって、彼が求めているのは革命である。なぜならこの作品ではメモリーとは単に主観的なものではない。それは同時に集団的なものであり、都市の記憶だ。集団的なもの、とは例えばそれまでに蓄積されていたであろう科学技術などの知や、社会制度のことだと考えていいと思う。同時に、ということが結構重要で、ここでは個人の記憶とそういった集団的なものがごっちゃに「メモリー」と名付けられている。この辺が理解するのを妨げているかなと思った。まあそれはともかくシュバルツに戻ると、彼は明白に都市を破壊しようとしている。そしてそれは彼のいう真実の追究と平行している。その意味でロジャーとシュバルツが激しく対立するのは当然だ。一方は秩序を維持しようと腐心し、他方は革命を望んでいるのだから。そして問題になっているのは常にメモリーだ。
そしてアレックスとゴードンの親子。この二人はパラダイム社というこの都市を実質上支配している企業の創業者とその息子だ。二人はともに失われたメモリーを探し求めている。まずはアレックス。彼は比較的わかりやすいと思う。シュバルツ・バルトについていったように、メモリーが従来の社会システムをひっくり返す(かも知れない)ものである以上、それを探し求めて管理する必要はあるだろう。もちろんこれは建前だし欺瞞だ。なぜならそういった大きな力を持つものなら、それを手に入れることは大きな権力を手に入れることに他ならないからだ。しかしそういった振る舞いがパラダイムシティを守ることにつながるということは言える。もちろんそれは市民を守る、ということと同義ではない。大きな権力を手に入れたなら、その権力を発揮する場が必要で、それがパラダイムシティだということにすぎない。そしてゴードンだが、これはちょっと難しい。ヴェラというパラダイムシティを破壊しようとするユニオンなる集団の一員によれば、ゴードンは40年前にパラダイムシティを襲ったカタストロフにあたって、支配的な地位にいた元老院の議員たちの記憶(メモリー)を「トマト」と呼ばれる多くの人口生命体(というか試験管ベイビー的なものなのだろうか、よくわからん)に移植した。しかしゴードン本人(だと思う)によればそれは間違いで、元老院議員の中でメモリーを持っていたものなど誰もいない。というか誰もメモリーなどもっていない。つまりこのトマトたちは多分人工的な記憶を埋め込まれたということなのだろう。でこのゴードンもアレックスと同様にメモリーを探し求めていた。なぜか? 彼は次のようにロジャーにいう。第25話だ。

遠い昔、私は君、いやメモリーを有しているロジャー・スミス君に交渉を依頼した。この世界が壮大なるステージだとしたら、我々人間はそのステージで役割を演じる役者にすぎない。メモリーを持つ必要などない。だが、その役割を変えられるものがいてもいいはずだ。この世界を演出する存在と交渉してもらいたい、とな。

つまり彼はアレックスのように独占するためではなく、ロジャーと交渉させるためにメモリーを探し求めていたということになる。そしてこの交渉の可能性というのは、ロジャーが第13話でいう自由、つまり「雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい」、そういう自由にかかわってくる。このような自由を護持するためにロジャーもゴードンも交渉をするわけで、少なくともゴードンには誠意があった、そう判断したからロジャーも交渉を引き受けた。交渉事には誠意が必要だ、とは第01話でのロジャーの台詞だ。

都市なるものに対してどういう態度を取るか、それがこの作品で描かれてきたことだと思う。少なくとも三つの明確に区別できる態度があった。あるものを手に入れて(解放して)転覆しようとするもの。革命的態度。そしてそのあるものを占有して支配しようとするもの。独裁的態度。この二つの態度はそのあるものを爆弾のようなものととらえている。爆弾をどう使うか、ということだ。当然交渉の余地はない。爆弾と交渉する者はいない。それに対して第三の態度はそのあるものを「この世界を演出する存在」ととらえる。このようなことは上に述べたように個人的な記憶と集団的なそれを混同することによって初めて可能なのだが、いずれにしてもこの世界、つまりパラダイムシティを演出する存在と交渉することが可能であり、おそらく必要であるからネゴシエーターという職業がこの街に必要なのだ。まあそれはともかく、前二者の立場はいってみれば都市に対して外在的だ。もっといえば都市がどうなろうと自分には関係ない、あるいは都市がどうにかなることによって引き起こされるかもしれない自らの変化について考慮しない、といった態度だ。それに対してロジャーの態度は自らの実存を都市のそれと密接に関連づけている。つまり記憶を失った自分と記憶を失った都市が平行しているといってもいい。彼は記憶を失った自分を受け入れ、都市の中で役割を演じることを決めた者だ。そしてこのような決心は記憶を失った都市によって条件づけられている。従って失った記憶が頭をもたげることがあれば彼にとって大きな危機が訪れるはずだ。だから彼は都市に対して外在的な場所を占めることはできない。ある意味でいうと、シュバルツとロジャーの対立は『Heat Guy J』における兄弟の対立に近いということがいえると思う。つまり街を外から条件づけているものを変革しようとする者と、街の中で生きているものの生存を守ろうとする者との対立だ。
しかしいうまでもなく『Heat Guy J』とは違う。最も違うのはこの作品では記憶が問題になっているという点だ。それもここでの記憶は個人のそれにとどまらない、いろいろなものがごっちゃになった記憶だ。いろいろなもの、とは何か。個人の記憶、街の記憶、そして物語上語られるべき過去だ。ロジャー、およびパラダイムシティは失われた記憶を取り戻さない決断をした。このような決断がなされた以上、記憶は戻らない。つまり隠された過去の何ものかは明かされることがないのだ。このことが受け手に謎が解き明かされていないといった不満を与えてしまう最も大きな原因だ。しかしこのことは失われた記憶と決別するというある種英雄的な決断をしたこの物語にとっては必然的なことだ。むしろ物語上明かされるべき過去との決別そのものが、ここで語られているメモリーなるもの巨大さ、異様さを示している。

というわけで以上が僕の読解だが、どうなんだろう、よくわからん。いずれにしても僕は決してこの物語が投げっぱなしになったとは思わない。むしろ都市を過去を失った純粋な現在ととらえるロジャーの解釈、そしてそれを示した最後の交渉シーンにはぐっときた。まあ見てよかったといっていいのではないだろうか。