アニメの内と外

THEビッグオー』を見たのだが、なんか書こうかなと思っているのだがちょっとまとまらないので違うことを。
最近ニコニコで「○○歳が選んだ神アニメ」とかいうのをいくつか見ていた。それでちょっと思ったことを。まあネタだろうから目くじらたてることもないんだろうけど、そこらへんは僕は空気が読めないので、しょうがない。
書き込みでよくあるパターンなのは、若い人が投稿して、かなり古いアニメがあって「うp主本当に○○歳かよ」的なものだ。こういう書き込み自体をどうこう、というわけではなくて、その前提について思うことがある。つまりこれは各世代ごとで共有している強固な言説というか共通感覚的なものがあって、それからこれらの動画がちょっと逸脱しているということを示していると思う。多分その逸脱をうp主も意識しているからタイトルに示す年齢と動画に入れる作品の発表年にずれを忍び込ませるわけだ。
まあボケとツッコミ的なコミュニケーションとしてはよい。ただ上に述べたような共通前提をふまえた上で例えば世代とかを語る語り口は多分かなり一般的だと思う。しかし重要なことは、こういった語り方は作品そのものについては何も語っていないということだ。おそらくある作品を語るとき、そのどこを語っているのかを知ることは大事なことだと思う。そして受け手の共通感覚といったようなものは間違いなく作品外的なものだ。ここで何度も言っていることだが、そういった外的なものをあたかも作品に内属することがらとして扱うのは大きな誤りだ。そしてその最たるものが「萌え」であり「燃え」だ。前者についていえばその対象は時代を経て容易にかわるし、後者についていえば前時代の「燃え」は後の世代にとってはしばしば笑いの対象へと転換される。
話が飛んだように見えるが、世代間のボケツッコミ的なコミュニケーションも、萌えや燃えも作品外的な何ものかを前提としているという点では変わりない。それらは作品のありようというより、受け手の需要の仕方の問題だ。そしてそれを見越した製作する側のマーケティング的な思考だ。いてみればそれらは作品の前と後にある何ものかであり、作品を巡った何ものかでしかない。もうちょっと詳しく書くと、たとえば作品そのものが「萌え」を狙って制作されるということはあろう。しかし萌えとは受け手の感情の謂いである。これは効果をねらっているのであって、それは相対的なものでしかない。もちろん作品を巡った何ものかについて語ることに価値があることがあるかもしれない。よくわからんが社会学的に何か意味があるのかもしれない。また制作者がどういったビジネスモデルを思い描いていたかということを知るのも興味深いし、作品のある一定の理解を容易にしてくれるだろう。しかしそれは別の視点からすれば作品とは何も関係がない。常に作品外的な存在である受け手のありようについて語ることも意義あることかもしれないが、そういった外的なものと両立しない、それにあらがう何ものかについて語ることもそれなりに意義あることだと思う。映画よりもマンガ、マンガよりもアニメにおいてこういった作品外的なものを作品とごっちゃにして語るという傾向が強いような気がするがどうなのだろうか。

まあ自分が最近アニメを見始めて世代的な共通前提を共有できないし、燃えとか萌えとか感覚的にわからないからひがんでいるだけなのだが。