サテライト『地球少女アルジュナ』

前回のエントリーで河森正治が云々ということを書いたので、さすがにこれは見なきゃあかんだろということで見た。

結論から言うとこれまで彼についていってきたことが証明されたな、という感じだ。前のエントリーでも書いたが、彼にとっての問いは、「いかに戦わないか」ということだったが、どうして戦ってはいけないか、ということに関して明確に回答が与えられている。端的にいえば「お前が戦っている相手はお前自身だから」だ。相手をやっつければ必ず自分も傷つく。それは心が傷つくとかそういったことではなく、戦闘そのものが自らを傷つける行為だということだ。この作品が主張することは、自らと完全に切り離された他者は存在しないということだ。このことはこの作品で示されている自然というものにかかわってくる。自然とは全体だ。そして人間も、昆虫も、野菜や果物も、さらには病原菌でさえその一部だ。そして何よりも重要なことは全体である自然は調和に満ちていて、美しいものであるということだ。すべては全体に奉仕する。第04話でじじいが畑を耕す必要などないとほざくのはそのためだ。自然に従うならばすべては協調し調和へと向かう。どんな大義があるにせよ、戦うことはこの調和を破壊することに他ならない。なぜなら戦闘の名において破壊する対象であるものも自然の一部として全体に奉仕すべきものであるからだ。排除すべき敵などありはしない。自然の外部などありはしない。

まあここまではわからなくはない。しかしどこからどこまでを「自然」というかで事態は全く異なってくる。もし自然を上記のように外部を持たない全体として、ある種プリミティヴな状態をその理想とするなら(実際この作品ではそうしていると思うが)、排除すべき何ものかが現れてくる。それがテレサのいう「文明」であり「楽だから」といった動機づけによってなされる事柄であるだろう。つまり結局は排除されるべきものはある。
その中でも最も重要なものは言語だ。この物語において言語は本来必要のないものだ。だがある種の便宜(「楽だから」)のために言語を用いることになり逆に言語が人々を縛るようになる。ここでは言語の向こう側に何か伝えるべきものがあって、言語はそれをゆがめてしまうものらしい。僕としては言語に向こう側などなく、言語でない何ものかを指し示しているのではないと思うが、まあそれはよいとして、言語をそのように考えることによって言語やそれをもとにして構築される理性などはある種の過ちとしてとらえることができる。このことはおそらくかなり重要だ。なぜならそう考えれば、例えば彼は「本当は」こう思っていた、とか言えるからだ。この「本当は」というものは言語を突き抜ける。そしてこれが河森が信頼を寄せるであろう善意の根幹をなしている。人はコミュニケーションの誤りなどによって争いを絶やすことがないが、「本当は」みな平和を望んでいる、とか。そしてこの「本当は」の先に調和に満ちた自然なるものがある。二つのことがいえる。まず自然が調和に満ちて、なおかつ人間たちにとって本来快適なものであるという保証はどこにもない。むしろあらぶる自然がひ弱な人間たちを危機に陥れる、といった自然観を持った人も過去に大勢いた。自然の中で勝手に育った作物が栄養があってうまい保証もどこにもない。そもそも勝手に育った野菜やら果物が豊かな栄養を含んでいる必然性、必要性が果たしてあるのかどうか僕には知るすべはない。そしてもう一つ、「誤った」コミュニケーションを非本質的なものとして退けることができるのかどうかということも自明ではない。何よりもそれが誤ったものであるかどうかもある特定の視点においてのみいえることであり、そもそも多くの場合そういった「誤った」コミュニケーションを前提としてその上で何をするかということが問題になるはずだ。数学教師風にいえば、言語そのものを本来必要のないものとする事自体が「楽だから」そうしているのではないかと問うことができる。僕自身は実際そう感じた。

しかし河森的な思想に沿っていうならば、それは決して「楽だから」というわけではない。むしろ必然的な帰結であるといえるだろう。争いのない世界へと人々がたどり着くことができるとするならば(それこそまさに河森が自らの作品の中で主張していることだ)、実際に目にすることのできる争い、悪意は「誤り」であると断ずるしかない。「本当は」みなわかりあえるはずだ、と。「本当は」敵などいない。「本当は」みな平和を望んでいる。しかしこの「本当は」における鍵括弧を外すためにはまさに「誤り」を不可避的にもたらす言語の力に頼るしかない。我々はそれ以外のすべを持っていないはずだ。


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