サンライズ『天空のエスカフローネ』

赤根監督作品の最後は『天空のエスカフローネ』テレビ版および劇場版。『エヴァ』と同じ時期のものらしく、その陰に隠れて当時の話題はそうでもなかったようだが、今でも根強い人気らしい。特に韓国で人気だったらしい。ちなみにキャラデザは結城信輝。最初テレビ版ではみんな鼻が尖っていて気になってしょうがなかったが、だんだんなれてきた。劇場版ではかなり尖りはおさまって、『Heat Guy J』に近くなってきたと思う。ちなみにこの人は『地球へ…』のキャラデザもしているらしい。まだ見てないので、この人の絵と竹宮恵子の絵がどうしても結びつかない。

まあそれはともかく、僕はこの作品は赤根和樹作品というよりも、原作者である河森正治の作品群の中に位置づけるのがよいかなと思った。僕が見たのは『超時空要塞マクロス』と『創聖のアクエリオン』だけだが、両者に共通の点がこの『天空のエスカフローネ』にも見いだされるからだ。以下、そのことが妥当であるかどうかはここでは措いておいて、この作品における「河森的な問い」について考えてみたい。これらの作品に共通してみられる問いは、「いかに戦わないか?」ということだ。まあ一応ロボットというものは戦闘のための兵器であるわけだから、この問いは非常に困難だし、じゃあなんでロボットなんだ、ってことになってしまうのだが、こういう問いに立ち向かうってのは僕自身としては嫌いじゃない。ちなみにこの問いは「いかに平和をもたらすか」という問いとはちょっと違う。平和というのは視点の問題だから、戦争の果ての平和というのは当然あり得る。しかし河森的な問いは、その戦争そのものをどうやってやめるか、だからだ。前の二作品ではどうやってそれを実現したか。『超時空要塞マクロス』の場合はリン・ミンメイの歌だった(こちら参照)。また『創聖のアクエリオン』では敵と味方の合一という離れ業をやってのけた(こちら)。つまり河森的な問いは襲いかかる敵を排除した上での平和に関する問いではなく、そういった敵を排除しない平和の問いであるといえる。
ではこの『天空のエスカフローネ』においてはどうかというと、なんかよくわからんが想いが伝わることによってだ。戦いを望まない、平和を希求するひとみの想いが、最終的には運命を自在に操ろうとするドルンカークなるラスボスの野望を打ち破り、争いという運命を変える。ここで重要なことは、ドルンカーク自身も争いを望んでいたり、ましてや世界征服的なことを望んでいるわけではないということだ。おそらく彼もある種の平和を望んでいる。ただ彼はこう考えているだろう。つまり、戦いを終わらせるための戦いは仕方がない、と。ソレスタル・ビーイング的な考え方だ。しかしソレスタル・ビーイングとドルンカークとの間の最も大きな違いは、敵対している相手とわかりあえる可能性、といえばいいのだろうか、つまりガンダムの場合(多分00だけでなくガンダムシリーズ全体にいえることだと思うが)例えば今すぐみんなが戦わなくなればいいということではない。なぜなら敵対するものたちは覇権争いをしているのであり、仮に戦いが今止んでも、火種は残る。だからみな彼らの試みを無謀だと感じ、それどころかそこに何か陰謀があるのではないかとすら感じるのだ。利害をともにしていない以上、争いの可能性は決してなくならない。しかし『エスカフローネ』の場合は争っているという事実がまずあり、そういった事実をもとにして平和を希求する人々がいる。そもそもなぜ戦っているのか、という問いに対して感情的な根拠に基づいた回答を持っているのは自分の国を滅ぼされたヴァンだけではないだろうか。その彼も最終的には戦うことをやめ、エスカフローネを封印する。このことが意味するのは、みんなに(争いをやめたいという)想いが伝われば叶うということだ。そして事実そうなる。要はみんないい人なのだ。
おそらくこのことは(まだほとんど見ていないにもかかわらず)富野由悠季と比較するとよりはっきりと理解できるだろう。両者に共通しているのは、戦いがそこに巻き込まれる人々の意志にかかわらず行われる不可避的なものとしてとらえられているところである。河森はこの「意志にかかわらず」ということを「本来的には人々には戦争を望まない善意がある」と解釈した。そしてその想いは必ず伝わると。それが『天空のエスカフローネ』だ。おそらく富野はこういった善意を信じないだろう。むしろ争いが不可避的なのは、人々がこういった善意を持たないことによるのではないか。おそらく富野的物語はこういった事実のもとに進行するはずだ。言い方を変えれば、『エスカフローネ』において争いを引き起こし「運命」などと呼ばれていたものは人々の善意とは切り離され、それとは矛盾したものとして考えられている。だがおそらくそれは富野にしてみたら欺瞞だろう。有り体にいえば変えられる運命は運命とは言わない。サドにならっていえば、悪は広大だが善は狭量だ。エスカフローネ的な運命とは善の狭量さを補完するものでしかない。もし富野作品に運命なるものを見いだすことができるとすれば、それは人間の意志とかとは全く関係なく善意も悪意も飲み込んでしまうようなものなのではないだろうか。
いずれにせよ両者ともに戦争はいけない、ということを積極的に思っているという点では共通しているが、その先で決定的に分岐してしまう。河森にとっては争いとは人間の修正可能な誤りによってなされるということだと思う。そしてその誤りを正すのはしばしば争いに参加していない女性だ。

最後に、ではなぜロボットなのか、ということだが、やはりこの点についてはある種のフェティシズムを否定できないだろう。というよりむしろ上に書いたすべてのことは可変戦闘機を動かすための口実ではないかと疑ってしまうほどだ。運命可変装置とか幸運血液とかいうイタい設定も、そのためだと考えれば納得できなくはない。