ZEXCS/feel.『ダ・カーポ』とAIC A.S.T.A.『ガン×ソード』

ダ・カーポ』『ダ・カーポ・セカンド・シーズン』および『ガン×ソード』を続けて見た。なんちゅー組み合わせだとは思うが、まあよい。

前ふたつはエロゲ原作のものらしく、この手のものの中では比較的多く言及されているような気がするので見てみた。前に見た『Gift ~eternal rainbow~』がこの作品のパクリだといわれているのも見るきっかけになった。まあ『D.C. II』も今期放送されているし。『ガン×ソード』は谷口悟朗作品ということで。ニコニコで「ロボゲ住人が感動したロボットアニメベスト30」とかいう動画ででてきて、「童貞キターーーー」とかいう書き込みが多く見られたのでちょっと興味を持った。主人公は童貞らしい。

未だかつてこの二つ(前二つの作品は制作会社は違うがここでは一つの作品と見なしておく)の作品を比較した人はいないと思うが、続けてみたこともあってか比較しながら見てしまった。

何を比較するかというと、例によって喪失をどのように扱っているかという点においてだ。そもそもエロゲ原作のアニメにとってはどうなのだろうか。おそらくゲームにおいては喪失はバッドエンドにつながる。言い換えればクリアするためには喪失を回避しなければならない。もちろんアニメ化するにあたってはベストなエンディングを描く必要はないのだが、どうなんだろう、『School Days』以外にバッドエンディング(たぶんあれはバッドエンディングだと思うが)を描いたものってあるのだろうか。まあだいたいはハッピーエンドになっていると思う。以前のエントリーでも書いたが、ヤンデレというものはハーレム状況の中で主人公の男性の選に漏れた女性が、にもかかわらず物語から離れないための振る舞いであるわけだ。そして主人公からしてみても、こういった女性に対して適切な処理をしなければならない。そうでないと、その女性を失うことになるからだ。この処理を経て初めてハッピーエンドを迎えることができる。喪失のない結末だ。
ダ・カーポ』シリーズにおいてはこういった喪失の欠如は散らない桜というかたちで現れる。おそらく散らない桜の木の下には死体は埋まっていない。花が死の隠喩であるのはそれが儚く散りゆくからだ。こういった喪失の欠如はこの作品では魔法によってなされる。
しかしこの魔法の存在が登場人物たちにかえって不幸をもたらすということでそれを封印しようとする。人を幸福にするための魔法が、かえって不幸にしてしまうということだ。ファーストシーズンもセカンドシーズンもともに、魔法が封印されて、つまり桜が散って終わるということは注目に値する。しかしこれによって喪失の欠如というものが否定されるわけではない。むしろ魔法などなくても喪失はないのだといっているようだ。ファーストシーズン最終話で次のような主人公のモノローグがある。

「人生はゲームみたいにリセットできないというけれど、本当にそうだろうか。躓いてもまた、ダ・カーポのように最初からやり直せばいい。俺はそう信じたい。それは、決してゼロからの出発ではないはずだから。」

ところで喪失とはなにか。難しい問いだが、ここではとりあえず客観的な対象の喪失およびそれに対応する喪の感覚の一致と理解しよう。したがったただ対象が失われただけではここでは喪失と呼ばない。逆に喪の感覚だけが突出してしまえばそれは病理的になるだろう。その意味では上の引用はある意味で正しい。要は失ったと思わなければいいのだ。例えば誰かが死んでも、その人は僕の心の中で生きているとかぬかせばそれは喪失ではない。喪失を欠如せしめるためには何も魔法のような超自然的な力は必要ない。主人公およびアイシアは最後にそれを知ることになるのだ。

で、次の『ガン×ソード』だが、端的にいうと復讐譚だ。自分の兄を探している少女とともに婚約者を殺めたかぎ爪の男を追うという物語だ。ぱっと見ロボットに乗る『カウボーイビバップ』のような感じ(主人公のキャラデザだけ)。
古来多くの劇作家が示しているように、復讐は悲劇的な結末を導く。それは復讐が何かを得るための行為でも何かを取り戻すための行為でもないからだ。主人公であるヴァンのこの復讐を止めようとする多くの人がいうように、それは「憎しみの連鎖を生む」だけだし、第07話でジョーがいうように、復讐には得るものがない。ではなぜヴァンは、そして多くの悲劇の主人公は復讐を企て、そして実行するのか。それは自分がそう決めたからだ。以下は第20話の冒頭のナレーションだ。

なぜ戦うのか? なぜ前へ進むのか? 道は険しく、結末は悲しく、その行程はあまりにも苦しい。それでも誰も立ち止まろうとはしない。彼らは皆知っている。自分を曲げた後悔は死よりもその身を苛むものだと。

外在的な規範を道徳と呼ぶならば、自分で決め、自分で実行する規範を倫理と呼んでみよう。しばしば復讐は非道徳的だが、倫理的ではあり得る。悲劇における復讐はほとんど倫理的な振る舞いだ。しかしこれだけでは復讐が本質的な意味で悲劇的にはなり得ない。復讐が悲劇的なのは、多くの場合このような倫理そのものを捨てなければならないからだ。主人公ヴァンと同じ仇を追うレイはまさにこのような復讐を行うものだ。以下は第05話において初めてヴァンと対峙するレイの台詞だ。

仇を追いながら、自分のルールは守るつもりか(…)お前の復讐はずいぶん優しいな

復讐者は復讐を遂げるためなら非道徳的であるのみならず、非倫理的にならねばならないものだ。それはすなわち、ある喪失をきっかけとして次々と多くのものを失っていく、これが復讐だ。一般的にいって復讐が悲劇的であるのはこのためだ。

しかしその喪失をなかったことにできたらどうか? つまり殺された婚約者(エレナ)が生き返ったらどうか? これが最後に提出される問いである。もし復讐のきっかけが単に愛する人が殺された、という事実だけだったらもはや復讐する理由はなくなる。ゲームでいえばそれはリセットだ。しかしすでに述べたように喪失とは単なる対象の消失ではない。むしろより重要なのは、それによって引き起こされる喪の感覚だ。この感覚は消去できない。『ダ・カーポ』における魔法のようなものでもない限り消去はできない。ヴァンは最終話で次のように言ってそれを表現する。

エレナは死んだ。お前が殺したんだ。俺からエレナの死まで奪う気か。死んだやつはなあ、絶対に生き返らねえんだ。

ちょっとぐっときた。まあ言ってることは当たり前といえば当たり前なのだが。しかしこの辺りがこの作品とエロゲ原作のアニメを分つところだと思う。もちろんほかにもっと明白なところで分かっているわけだが。

で、ロボットに関しては…。どうなんだろう。この作品ではロボットは「ヨロイ」と呼ばれているのだが、物語に頻繁に搭乗するヨロイはロボットというよりも搭乗者の身体の延長のようだ。コックピットにはモニターもスイッチも何もなく、その中に搭乗者はただ突っ立っている。ロボットはたぶん搭乗者の身体の動きか意識かによって動くのだろう。ちなみに主人公のヴァンは改造を施され、定期的にダンという自らのヨロイに搭乗しないと死んでしまうらしい。まあ要はリアルロボット的ではない。本当に鎧みたいなものだ。面白かったからいいのだが。