GAINAX『天元突破グレンラガン』

春はじまりでリアルタイムで見たロボットアニメは前のエントリーの『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』とこの『天元突破グレンラガン』だ。『アイマス』と『ぼくらの』(一応ロボットアニメと見なしてみる)はいずれ見ると思う。

ニコニコで見るとコメントで画面が見えなくなるほど盛り上がっていたようだが、2chのスレとかだと意外とそうでない意見もあったようだ。目についたのは以下の意見。

312 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/10/01(月) 00:44:42.12 id:MVr7wEiO0
むりやりで寒いって意見が結構多いな
俺は熱血系アニメは全然みたことないからどこが寒いのかさっぱりだったけど
ゲッターとかを見てた人にはやっぱ寒いのか?

317 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/10/01(月) 00:46:52.83 id:xoryH0V00
>>312
個人的にはゲッターもこれも好きなんだが
なんだかグレンラガンは表面的に熱血な気がした

318 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 :2007/10/01(月) 00:48:11.65 id:jtQs29Jk0
>>317
そうそう
「熱血してるから興奮するでしょ?」
「ここからお約束の熱血で盛り上がりますよ^^」
みたいなのを終始強要されるんだよね。
この熱血を萌えと置き換えれば、よくある糞萌えアニメと全く一緒の構造

グレンラガンの最終回がスッキリしない件

この最後のレスはまさに僕がこのブログでいっていたことだ。僕の意見としては、この構造は本質的にはすべての「燃え」に当てはまることだと思う。基本的に「作者の意図」なるものはいつの時代にも受け手との共犯関係のもとに成り立っているものだ。そしてそもそもGAINAXという制作会社はしばしばそういった共犯関係を利用してきた。この場合「パロディ」でも「オマージュ」でも何でもいいのだが、先行する作品に対する参照というものは共犯関係を成立させるための受け手の選別を可能にする。こうすることで岡田斗司夫的な言説を可能にする。「何の知識もなくてただ熱くなるのもいいんだけど、我々の世代(我々オタク)にとってはこのシーンは明らかに何々(作品名)で、それを知ってるとまたべつの楽しみ方がある」とか。アニメ夜話とかを見てると彼の作品に対するコメントって基本的にこのパターンだと思う。

まあそれはともかく『グレンラガン』だが、僕はその燃えの問題よりも、リアルロボットとスーパーロボットの問題として面白かった。確かネットではこのアニメはメタロボットアニメだといわれていたようだが、僕もそのように感じた。それはこのアニメがリアルロボットとスーパーロボットとの相克を描いているからだ。ロージェノムを倒したあと、ロシウが中心となって地上に国家を構築しようとする。そこでロシウはグレンラガンを封印して軍隊を組織化しようとするが、アンチスパイラルなる新たな敵が人類(螺旋族)を滅ぼそうとして結果的にグレンラガンが戦いに挑む、って話なのだが、この場合のロシウとグレンラガンに搭乗しているシモンとの対立はまさにリアルロボットとスーパーロボットの対立そのものだ。前者の観点からすれば、ほとんどスタンドアローンなマシンはあってはならない。スペック的に劣ってもコントロール可能な量産できるマシンで組織的にミッションを遂行する方が望ましい。また建国の中心人物が前線に立つのも問題だろう。

もちろんそのようなリアルロボット的な論理は通用しなかった。理由は簡単だ。敵がとんでもなく強かったからだ。そんなあ、とか僕なんかは思ってしまうが、基本的にこのアニメでは細かいことは抜きなので。目の前に強大な、無数(無量大数)の敵が現れている状況にあって主人公たちに求められるのは強さを獲得することであり、その意味でいかにグレンラガンスタンドアローン(つまりナンセンス)で(そのメカニズムが解明されていないので)暴走する危険を否定できないにしても、問題にならない。もうグレンラガンに頼らなければ人類は滅びてしまうからだ。それともう一つ、スタンドアローンが問題にならない理由がある。それはシステム全体が善意によって支えられているからだ。それがどんなに危険なものであるとしても、シモンが乗っている限り大丈夫だ、と。もちろん物語全体はこういった善意によって支えられたシステムというよりも、事態の緊急性といったものがより問題になっているのだが、シモンとその善意によってすべてが支えられているということは無視できない。そもそもロシウが確立しようとしたシステムはこれとは全く逆行する。端的にいえばシモンなしでも回るシステムを構築したかったのだ。リアルロボット的な観点からいって当然ではある。もっといえばそのシステムを駆動する人が悪意を持っていたとしても回っていくシステムを作らなければならない。その意味ではメカニズムが解明されていないグレンラガンを組み込んでゆくのは非常に危険だ。だがこの物語には悪意を持った人は存在しない。そもそもラスボス自身がある種の善意によって動機づけられている。もちろんロージェノムについてはいうまでもない。

簡単にまとめるとふたつのことが問題となる。一つは強さへの希求、それは限りない可能性へと向かう方向性だ。そして善意によって支えられるシステム。このふたつによって幸福な結末を迎え、子供は成長する。僕はこのような光景を過去に何度も見た。少年ジャンプに連載されていた数々の戦闘マンガにおいてだ。限りない可能性への志向性は能力インフレなるものと結びつくだろう。そして場合によっては善意なるものは努力、友情、勇気などと翻訳されることもあるだろう。しかしこのようなマンガはすでにオールドファッションとなっているだろう。むしろ全く逆の志向性を持つマンガもとっくの昔に出てきている(『ハンター×ハンター』『ジョジョの奇妙な冒険』など)。なぜアニメにおいてこういったものが今成り立つのか、これはアニメとマンガの違いなのだろうか。僕には分からない。もちろんこういった志向性を全く持たないアニメも存在する。つまり、むしろ不可能性を突き詰め、善意を前提としないシステムによって成り立つアニメだ。僕はこういったものをいわゆるリアルロボットアニメに見出してきた。こういったアニメにおいては今ある手札で何ができるかということが問題になる。特車二課の権限で何ができるか。『ハンター×ハンター』においてもそうだった。念を使って何ができるか。これらはいずれも、まず不可能性が問題になる。特車二課には捜査権は与えられていない。念によって「何でも貫くことのできる槍」は作ることができない。こういった何ができないか、ということを突き詰めることによってシステムを浮かび上がらせてゆく。ロシウがやろうとしたことはこういうことだ。しかしそれも、緊急に迫る強大な敵の前には全く意味を持たない。『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』がある意味でのスーパーロボットの不可能性を提示したとするならば、この『天元突破グレンラガン』はべつの意味でのスーパーロボットの無限の可能性を示したということができるのかもしれない。