ブレインズ・ベース『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』

最近は『装甲騎兵ボトムズ』を中心に見ているが、あまり続けてみるとむせるので、『機動警察パトレイバー』TV版と平行して見る。リアルロボット三昧といったところか。

その間に続々と放送中の番組が終了してゆく。その中で気になったのが『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』だ。どうなんだろう、ブログ等で見るところによると同じ春はじまりのアニメの中で『らき☆すた』や『天元突破グレンラガン』などと比べてあまり話題になっていないように思えるが、僕としては面白かった。見始めたときにはロボットがどうとかということはあまり気にしないでみていたが、見終わってみると、ロボットというものについて考えるにあたって非常に示唆に富んでいたと思う。より正確に言うと、スーパーロボットについてより考えさせられた。最終回は三回見た。

このブログではリアルロボットを搭乗、操作する人間が何かを成し遂げるための媒介、手段だと定義づけた。そしてもしスーパーロボットがリアルロボットの対立項として考えられるならば、スーパーロボットはリアルロボットの反対であることになる。反対? しかし実際この『ギガンティック・フォーミュラ』はこうしたスーパーロボット像を提示したと思う。

ちなみにこの作品は地球上に十二体あるギガンティックというロボットで国ごとに戦わせ、勝った国が主導的に統一政府を作るって話なのだが、これをWisest World WarといってUNなる組織がこの戦争を管理している。僕はてっきりこの中立を装っているUNって組織が実はラスボスだって展開かと思っていた。『スプリガン』的な展開というか。全然違っていた。この予想はもしかしたらリアルロボット的な思考によるものだったのかもしれない。

この作品はもっとスーパーロボット的だった。スーパーロボットとはなにか。もしリアルロボットが人間にとって媒介にすぎないものであるとするならば、その反対であるスーパーロボットは人間を媒介として主体的にふるまう存在であるということになる。つまり人間とロボットの立場が逆転してしまうのだ。しかしその逆転はどのような方法によってなされるのか。それは搭乗者の精神を浸食することによってだ。搭乗者の精神が侵されるというアイディアはもちろんオリジナルではない。『蒼穹のファフナー』においてそれはすでに示されていた。僕が知らないだけでたぶんそれ以前の作品でもこういうアイディアはあったのではないかと思う。ただ少なくとも『ファフナー』においてそれは搭乗者の苦痛の問題にすぎなかった。確かにフェストゥムは「敵」ではあるが、それが人間たちを殲滅しようという意志をもっているかどうかは明確ではなかった。敵というよりも他者といった方がおそらく正しい。しかし『ギガンティック・フォーミュラ』はそうではない。ONIXなる最後のギガンティックは明確に人間を滅ぼすという意図をもっている。搭乗者は精神的に侵されることによってONIXの傀儡となった。強大な軍事力を持ち、周辺諸国を手なずけ、おそらくはUNを通してこの戦争そのものに影響を及ぼしたであろうアメリカの大統領は精神を侵されたであろうこのギガンティックの元搭乗者であり、したがってそれはONIXの意志であった。ここに搭乗者たる人間とギガンティックたるロボットとの関係がリアルロボットにおいてのそれと比べて完全に逆転する。

だが人間とロボットは時と場合によって主体になったり媒介になったりできるといったような相対的な関係にはない。最終回で示されているのはまさにそのことだ。そのことを主人公は次のように言い表している。「人間は自分たちの力だけで生きていける。人間は世界を支えられるだけの力を持ってる。神様なんて何もしてくれなくていい。伝説の中で眠ったままでいいんだ。」この作品ではロボットは神の化身なのだが、この引用は人間と神様=ロボットの非対称性を示している。じじつ、人間は神様なしでも生きていけるが、神様は人間なしでは認識論的にあり得ない。ギガンティックは人間の精神を侵し、人間を操ることによって人間の世界にあるシステムを構築することができた。しかしそれは人間がいなければそのようなことはできなかったということも示す。ここでは主体の行動は手段に依存している。まさにこの点に関してリアルロボットアニメはツッコミを入れたのだ。今見ている『パトレイバー』(とりわけ押井脚本回)と『ボトムズ』はそういった依存を徹底的に排除しようとする。レイバーもボトムズも途方もない大きなことを成し遂げることを可能にするものではない。正確にいえば、ロボットは人間が生活したり戦ったりする上での環境のようなもので、何かをするためにロボットがあるというよりも、ロボットがある環境で何をするかということが問題となる。車みたいなものだ。主体(人間)と媒介(ロボット)の関係が逆転したらロボットにとって人間が環境になる、ということが起こるだろうか。上の引用はそれに否の回答をしたものだと考えることができる。まあ常識的に考えて当然だ。

つまり『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』は(僕が考える)スーパーロボットなるものの存在の困難さ、もっといえば不可能性を示しているのではないか。それにしても半年間がんばって見てきてよかったと思う。ちなみに制作会社はブレインズ・ベースというところだが、同社制作で今放送中の『バッカーノ!』も面白い。信頼していい制作会社なのだろうか。『イノセント・ヴィーナス』についてはあんまりいい評判を聞かないが。