放送中止関係の話

例の放送中止についての話。実は今期はいろいろ放送が中止とか、内容の差し替えとかがあったらしい。果たしてこれがよくあることなのかどうかはわからないが、まあ騒がれているということを考えると、そんなに頻繁にあることではないような気がする。

僕が「被害」を受けたのは『School Days』と『ひぐらしのなく頃に解』だ。まあ『もえたん』とかも差し替えとかあったが、あのときは一応べつのものが流れたので、まあそれはそれでよし、という気にはなった。第一印象というか、最初に思ったことは当然がっかりしたということだ。とくに『School Days』はあとは最終回を残すのみだったので、その失望は大きかった。また『ひぐらしのなく頃に解』については、流血話はなしの方向に向かっているようだったので放送中止には少々疑問が残った。

というわけでいくつかブログとか2chとか見てみると、案の定放送中止を非難するような書き込みが多い。そこで気になったのは、アニメを芸術作品と捉えて芸術作品はつねに(反ではなく)非道徳的なものだから、それを認めないのはおかしいといった論調があったことだ。

どうなのだろう。まあ芸術とは何かという定義の問題なのかもしれないが、こういった論調にはちょっと引っかかるところがある。たとえばまたしてもid:tukinohaさんのエントリーになるが、芸術は世俗の規範から切り離されて創造され、評価されなければならないということをおっしゃっている。だとしたらまず第一に市場から切り離されているべきではないのか。しかし日本のマンガやとりわけアニメは何よりもその市場の中で生まれた表現だ。このブログでも触れてきたが、萌えなどという概念はまさにその市場のある種のマーケティングによって生まれ、そして発展してきた概念だと思う。それを差し置いてこういう時だけ芸術とかいうのはどうか。

問題なのはむしろ当該の作品が今回起こったような事件と何らかの関係を持ちうるかどうかだと思う。このことは今回の措置に直接的に関係するのではなく、その背景、あるいはそれを可能にする条件のようなものに関係していることだと思う。たとえば『ひぐらし』シリーズがその視聴者たちに洗脳のように脳に作用して斧なり鉈なりで誰かに襲いかかったりさせることがあるだろうか。もしそれが立証されれば完全にアウトだ。今回の放送自粛に対して何も反論することはできない。むしろそういう問題が起こるまで放送し続けた局の側の責任が問われるだろう。あとその場合犯人の責任能力は問えないだろう。まあサブリミナルがダメってのは一応そういう理屈でということなのだろう。どの程度そのメカニズムが解明されているのかは分からないが。しかしそういったことは証明されてはいないと思う。だが局側は『ひぐらし』の内容が凶悪犯罪に「影響する」と考えた。その場合『ひぐらし』と凶悪犯罪との間に想定される関係は因果関係だ。おそらくここが一番問題なのだと思う。放送された番組とその視聴者たちのその後の行動に因果関係を見出せると考える考え方がこういった措置を生んでいる。しかしそれは本当にそうなのだろうか。少なくともそれが学問的に証明されうる事柄であるということは聞いたことはない。

問題なのは因果関係の濫用なのだと思う。自然科学の分野では『あるある』やニセ科学についての問題化によってかなりそういった濫用には歯止めがかかっていると思う(と信じたい)。しかし社会科学の分野においてはこういった濫用は問題化自体あんまりされていないのではないだろうか。もちろんここでいっているのは専門家のレヴェルでではなくて、普通にテレビを見る我々一般人のレヴェルでのことだ。レタスを食べれば眠れるといわれると「そんなわけねえだろ」とか思うのに、あるアニメが犯罪を引き起こすといわれると信じてしまうのか。僕が思うに原則的にいって放送自粛が可能なのはその番組の内容が直接的に誰かの利益を不当に侵害したり、誰かを不当に傷つける場合だけだと思う(「不謹慎だ」という理由での放送自粛についてはとりあえず措く)。「直接的に」ということが重要だ。つまりあやしい因果関係抜きにそれを証明しうるということ。もちろん子供の中にはそういった原則は通用しない人もいるかもしれない。だからゾーニングしかないと思う。確か『School Days』に関しての最後の牙城がAT-Xだったと思うが、ここではゾーニングがなされていたと思う。もしゾーニングがなされていたにもかかわらず放送中止となったらそれはかなり問題だと思う。なぜならそういうことがあった時のためのゾーニングなわけで、それでも中止ということになると、視聴できる年齢の設定を間違ったか、そもそも放送すべきでないものを放送してしまったということになる。つまり作品そのものというよりも、その放送を決定した側の責任ということになるだろう。だから放送してくれると信じる。

まあ真相は森達也の『放送禁止歌』的なことなんだと思う。はっきりいってそういう決定をする側が因果関係とかそういうことを考えているとは思えない。この点はたぶん『あるある』とかも同じだと思う。おそらく日本でテレビ放送が行われて以降、放送する側の論理は制作する側、そして視聴する側の論理とはつねに乖離してきた。だから今さらという気はするが、だったら著作権とかでうるさいこというなよとか思う。

参考:
tukinohaの絶対ブログ領域 - 『School Days』『ひぐらしのなく頃に解』の自主規制に関して‐日本人に芸術の自立性は理解できない?
萌え理論Blog - 「School Days」最終回の放送自粛についてまじめに考える
萌え理論Blog - 「ひぐらしのなく頃に・解」の放送自粛についてまじめに考える
Triple3のつれづれ - ひぐらし解の放送休止について、内容をどう変更したら放送できるか考える
WebLab.ota - オタクはまた弾圧されるのだろうか?