ヤンデレとかいうやつ

SHUFFLE!』および『Gift ~eternal rainbow~』。例のアレつながりなのだが、別にゴキブリのことではない。ネット上ではよく空鍋のことがでてくるので、とりあえず見ておこうと思って、ウィキペディアを中心(というかそれだけ)に調べてみると似たようなものとして「一人糸電話」というのがあるらしく、それがこの『Gift ~eternal rainbow~』だったので見てみた。

僕はMac使いということもあってかPCゲームは全くやらないので、原作との兼ね合いがどうかということについては分からない。どうやら空鍋とか一人糸電話とかいったものは原作からはかなり外れるものらしく、批判も多かったという記述がウィキペディアにもあった。でもああいうゲームって複数の筋というかエンディングがあって、バッドエンディングもあると聞くので、そういう展開もあっていいと思うが、どうなのだろう。まあでもウィキペディアの『SHUFFLE!』の記述を見ると、原作ではドロドロした人間関係を描かずに、明るい物語を作ろうというコンセプトがあったらしいので、その点では空鍋とかは外れるかもしれない。まあでも大してドロドロはしてなかったと思うが。

このふたつの作品、どちらも幼なじみの女の子が主人公のことを好きなのだが結局はふられる格好になって、病んでくる(というほどのことでもないが)ということで、そういった状態をヤンデレというらしい。繰り返しいうが別に大して病んでない。まあでも痛々しいということは多少はあるのでそれを病んでいるといってもいいかなとは思う。まあそれはともかく、このヤンデレ的な状況の作品ないでの位置づけがふたつの作品で非常に似ている。まずそのでてくる場所。両方ともエンディング、大団円のちょっと前だ。つまりこのヤンデレ的状況を解決してエンディングを向かえるということになる。起承転結でいうと「転」になるのだろうか。僕はどちらかというと悲劇的な結末を望んでいたのでそれにはちょっとがっかりしたが、まあそういうものだ。

主人公である男の観点からすると、(なぜか)あらかじめ自分のことを好きな女性が何人かいる。その中から主人公は任意の女性を選ぶ。まあ告白したりする。しかしその選に漏れた女性はなぜか主人公に固執する。だが当然それはかなわない。したがって病む。主人公にとってはその病みは自分が他の女性を選択したことによって引き起こされたわけだからそのことに対してそれなりに責任がある。なのでそれを癒さなければいけない。『Gift ~eternal rainbow~』においてはピアノの演奏を聴いてあげるということがそれにあたる。こうすることでふられた女性も主人公のもとを去るのではなく、主人公に対する愛情をなぜか失うことなく結末を迎えることになる。

さらにこのふたつの作品に共通しているのは、物語の主要な部分を構成するメンバーが主人公の決断にもかかわらず一切減らないということだ。いってみればヤンデレとは主人公の自分にとって不都合な決断にもかかわらず物語を構成するメンバーであることをやめまいとする意志と言える。普通なら「めんどくせえなこの男」とか思って別れようものだが、そうはならない。そのかわりに病む。『めぞん一刻』とかでもメンバーのうち誰一人も取り返しのつかない傷を負うことなくハッピーエンドを迎えるが、それでも最後にはそれぞれ別の人生を歩むことになる。このふたつの作品ではべつの道を歩むということはあり得ない。まあ同じ学校に通う学生だから当然だ、と考えることはできるが、僕はむしろ、主人公の決断にもかかわらず全メンバーが傷を負ったり、べつの道を歩むことなくみんながハッピーエンドを迎えるためにこういった設定が利用されたのだと思う。ヤンデレ的要素もそのために導入されたのだ。それは決断のあとにやってくる一つの危機であって、それを乗り越えて初めてエンディングを迎えられる。言い換えればそれは乗り越え可能な何ものかだ。

以前新海誠作品についてのエントリーでもふれたが、僕は喪失のない物語にあまり興味が持てない。というか物語とは喪失の謂いなのではないだろうか。しかしこのふたつの作品では「いかに喪失しないか」ということが問題となっている。『めぞん一刻』ですらなにがしかの喪失があった。終盤での七尾こずえのキスはそういった喪失と関係していたと思う。それに引き換え芙蓉楓の「まだ好きでいていい」ってなんだよ! とか思う。まあ確かに空鍋は五、六回繰り返してみたが、結局はハッピーエンドに向かうための一つのステップにすぎない。ちなみに一人糸電話についてはそんなに病んでいるという感じはしなかった。そういうこともありじゃないの、という感じ。そういう意味では『School days』にはちょっと期待する。はっきりいって上のふたつの作品は主人公が恋愛に対して真剣すぎて気味が悪いのだが、伊藤誠のいい加減さはそんなもんだよなとか思う。

僕がアニメを見初めて強く思ったのは、ハッピーエンドばっかりだということだ。どんなにひどいことがあっても、最終的にはなんかハッピーな感じになっているものが多いような気がする。いわゆる「鬱アニメ」の代名詞になっている『今、そこにいる僕』でさえ、ある程度問題が解決して主人公は最後にもといた世界に帰ることができた。まあ僕の見ているのは最近のものしかないのだが、なんかハッピーエンドじゃなかったらいけなかったりするのだろうか? マンガだったら結構ひどいエンディングのものはあると思うが、どうなんだろう。富野作品には結構ひどいものがあると聞く。逆に言えばほかの作品のほとんどはハッピーエンドなのだろうか。いずれにせよ言えることは、少なくとのこのふたつの作品についてはヤンデレ的要素というのはハッピーエンドのための一つの契機でしかないということだ。そしてそれによって喪失そのものが失われてゆく。