GONZO『i-wish you were here-』:声優的上手さと俳優的上手さ

せっかく先日のエントリーで本業じゃない人が声優をやることについて書いたので、その例になりそうなものを見てみた。それがこの『i-wish you were here-』。またしてもGONZO。主役の声がオダギリジョーということで。

前回のエントリーでは本業の声優じゃない人が上手ければそれでいいじゃないか、という考えはとりあえずおいて考えてみた。というのは問題なのは質よりも労働機会のことではないかと考えたから(でないと上手ければ声優以外の人が本業の声優から仕事をすべて取り上げていい、という話になってしまうので)なのだが、もう一つ大きな理由として「上手い」ってなんだかよくわからない、ってこともあるからだ。よく音楽をやっている人が僕にいっていたのだが、プロとアマチュアの違いは後者においては上手いか上手くないかが問題となるが、前者においてはそれとはほかのもの、上手いか上手くないかでははかれない何ものかが必要になるらしい。こういった考え方を全面的に信じているわけではないが、そういう部分がないことはないだろう。よい棒とか。

だからよくわからないなりに「上手い」とは何かということをちょっと引いた目で見ながら考えてみると、次のようなことがいえるのではないだろうか。つまり上手いか上手くないかの基準というものは(全面的にではないにしても)教育に依存しているのではないかと。つまり僕は声優の教育が受ける教育について何も知らないので、その演技が上手いか上手くないかということは本質的には分からない。ただ違和感を感じたり納得したりするにすぎない。もちろんそれをもって上手さを判断してもいいのだが、それは汎用性のある基準とはなり得ない。これが僕が「上手さ」ってものがよくわからない理由だと思う。そしてそれは声優の演技に限らない。演出だったり作画だったりもそれに当てはまると思う。いわゆる「作画厨」というのは、作画を見た時の感情を上手さの基準と勘違いしてしまう人たちのことだと思う。

一般的に何かを学ぶとはその領域における価値の基準についての共通の理解を獲得することだと考えると、次のことがいえると思う。つまり、声優が受ける教育と俳優が受ける教育は違うから、価値基準についての理解も共通してはいないだろうと。また単に俳優といっても映画俳優と舞台俳優で違うかもしれない。

そんなことを考えながらこの『i-wish you were here-』を見た。一言でいうならば、オダギリジョーの演技はほかの声優の演技と違うのか、違うとしたらどう違うのかということだ。
前提となるところをいくつか。この作品は2001年発表。オダギリジョーが初めて名を売ったのが2000年の『仮面ライダークウガ』というから、今ほど有名ではなかった頃だろう。ウィキペディアによればもともと監督志望だったがなんだかんだでアメリカ、および日本で演技を勉強をしたらしい。アメリカでは「メソッド演技法」なるものを学んだらしいが、これまたウィキペディア(ソースなし、と書かれているのでどれだけ信用していいか分からないが)によれば役の内面的な感情を表現することを第一とする演技法らしい。スタニスラフスキーシステムに近いのかなと思ったらそこから派生したらしい。オダギリがどの程度この方法論を学び血肉化していったかは分からないが、まあ一応記憶にはとどめておく。

オダギリは「俳優」としての教育を受けてきた。この教育は声優としての教育とは異なるはずだ。オダギリの演技を見てまず思い出したのはアニメを見はじめた頃のちょっとした驚きだ。声優たちは驚いたときとか返答に困った時とかに「んあぁ」とか「うぅ」とかの言葉で表現できない音を頻繁に発する。最近は慣れてきたがこれには違和感を感じたものだった。オダギリが全くこういった音を発しないということはない。それは音響監督の指導があるから無理だろう。だがそういう違和感をオダギリ自身が感じているのではないかと僕は思った。それが彼が声優をやるということそのものの違和感として僕には感じられた。おそらく「俳優」として考えたときに、表現すべき内面を声だけで示すというのは不可能であるし間違ってさえいるのではないだろうか。もしオダギリがそう考えているとしたら、それは彼に声優としての才能がないというよりも、「俳優」としての教育の結果であると考えることもできる。じじつウィキペディアによれば彼はこの作品以外で声優をやってはいないようだ。

もちろん俳優と声優が受けてきた教育によって明確に区別されるということはないだろう。この作品にも出演している朴璐美はかなりど真ん中の新劇の俳優だ。俳優の「上手い下手」と声優のそれをふたつの異なる言説に属するものとして捉えるならば、このふたつの言説は教育のみによって作られるのではない。だから出自や受けてきた教育によってその人が属する言説が決定的に決まるのではない。ただ大きく影響はするだろう。オダギリはその声優の言説の中に入ることができなかったのではないか。何となく僕の印象では舞台を中心に活動している人は声優も上手くて、映画中心の人は声優に適していないような気がする。江守徹なんか完全に前者だ。また浅野忠信とかが声優をやったら(やらないだろうけど)かなり厳しいことになるような気がする。適当にいうならばそれは台詞の比重の問題なのかなとか思う。映画なんてほとんど喋らなくても成立することがあるし。

そんなことを考えながら見ていたのであんまり内容とかが入ってこなかった。まあでもいつものGONZOだろう。なんかグロい敵が襲ってくるし。でもなにか物足りない。思考を途中で止めちゃってる感じがするんだよな。この話では宇宙からやってきたウイルスが体内に入ると怪物のようになって人を襲うってんだけど、怪物同士ではやり合わない。ということは怪物同士で(感染していない人とはできないにもかかわらず)コミュニケーションできる可能性があるってことだし、まあいろいろ研究しなきゃいけない点もあるだろう。そういうのが全部すっ飛ばされてしまっている。もっとちゃんと考えろよとかいいたい。