タツノコプロ『超時空要塞マクロス』TV版・劇場版

テレビシリーズと劇場版、それとなんかリン・ミンメイのプロモーションヴィデオみたいなものも見た。そして例によってアニメ夜話

どこから始めたらいいのか。全体としてはアニメ夜話で北久保がいっていた「作品に漂う童貞臭」ということにつきると思う。「キースー」を見た時のゼントラーディ人たちのおそれおののく姿が笑えた。マクロスはこれ以降もいくつも作品が発表されていて、確か「マクロスサーガ」とかいわれていたような気がするが、それらすべてに共通する「三本柱」なるものがあるらしい。歌、可変型戦闘機、三角関係だ。なんつー組み合わせだとか思うが、今これをやるとセカイ系になってしまうのだろうか。あるいは三角関係というところがポイントで、それがセカイ系になることを阻んでいるのだろうか。そういえば「セカイ系」と呼ばれる作品群の中で三角関係が扱われているのってあるのだろうか。あんまり思い浮かばない。シンジとレイとアスカはちょっと違うだろう。三角関係になりそうなものはあるような気がするが、どちらかが涙をのんで何も言わないというようなのが多いような気がする。

全編見通して思ったのは、常に戦争とはむなしいものだ、とか戦争はすべきではない、といったようなメッセージが組み込まれているな、ということだ。作品全体が戦争の悲惨さを伝えていることもそうなのだが、登場人物たちもそのように考えているということだ。以前富野由悠季のインタヴューを見た時、彼自身そういうメッセージを組み込んでいったのにそれを見た世代が9条改正とかいっているのは悲しい、とかいっていたが、これは単純に作家たちの思想の問題なのかあるいは80年代というのがそういう時代だったのか。
まあそれはともかく、このことは僕がロボットアニメについて考えてきたこととかなり深く関係する。戦争が避けるべきものなら当然物語上も戦争を避けるためにいろいろなことがなされる。要は外交上の努力がなされるということだ。で、『マクロス』の場合はそのためにリン・ミンメイの歌が役立ったりするわけだが。そのことが意味するのは、いわゆる戦闘行為自体は決まったことを遂行する行為でしかなくて、ある意味でいうと戦闘行為に先立つ折衝などの結果にすぎない。もちろん戦場そのものが舞台になる物語もあるだろうから、これがどこにでも当てはまるということではないだろう。しかしこのことは『パトレイバー』について僕が以前語ったことと関連してくる。そしてそれは「燃え」の不可能性につながる。なぜなら戦闘機に乗っている最中でも戦闘する者は自分が行っていることが正しいのか自問しないわけにはいかないからだ。つまり迷いがありそれは消えない。何度も言うように迷いがあるところに「燃え」はあり得ない。逆に言えば、「燃え」を実現したい場合はこういった戦争反対的なテーマを『ガンダム』や『マクロス』のようには表現できないのではないだろうか。かといって戦争サイコーとはいいづらい。ではどうするか。敵を謎の存在にしてコミュニケーション不能にすればよい。敵が外交的な交渉の対象でなくなればどんなに平和を望もうとも降り注ぐ火の粉は払わなければならない。その場合は戦闘は単なる後処理ではない。むしろ逆に戦闘そのものがコミュニケーションとなりうる。これがまさに『蒼穹のファフナー』だ。結構ロボットアニメで「痛み」がテーマになるものは多いと思うが、このことと無関係ではないと思う。『エヴァ』とか『ゼーガペイン』(これは厳密に当てはまるかどうかちょっと記憶があやふやだが)とか。

その意味でいうと『超時空要塞マクロス』は奇跡だ。いきなりやってきて、その生態とかも全く明らかになっていない異星人と同盟関係が結ばれるのだから。ちなみに僕にとってはエキセドルがグローバルと握手するシーンがこの作品の中で一番ぐっときた。そしてその奇跡を可能にするのがリン・ミンメイの歌ということになる。もちろん対話可能性というものがある種の甘さというか楽観主義に見えることはあり得るだろう。「対話できない存在がある」ということがリアルであるということは充分考えられる。そしてそういう存在との接触が痛みを伴うということも。しかし『マクロス』においてはこの可能性がある種の迷いを生む。つまり「本当は戦争なんてしないで済んだのではないか」といったような迷いだ。これが「燃え」の発生を阻む。これは構造的な問題だと思う。もし80年代のロボットアニメがこういった戦争に対する態度表明をしているものならば、「燃え」というものは当時はほとんど不可能に近かったのではないだろうか。どうなんだろう。

全然関係ないのだが、劇場版とTV版で作画が全く違うのにビビった。アニメ夜話でも板野一郎がいっていたが、TV版では進行がとんでもないことになっていて、制作進行の人が信号待ちで車を乗り捨てて逃げたほどだったらしい。僕がTV版を見て気になったのはなんといっても登場人物の目だ。みんな少なくとも一度は斜視になっているのではないだろうか。そんなわけで直後に見た劇場版のすごさには驚いた。こういうことやれる人たちだったらTV版ではストレスがたまっただろうなあと思う。ただストーリーに関していうと、いろいろはしょってる感じでTV版を見ていない人はどう思うんだろうとかいらぬ心配をしてしまった。まあでもこれは絵を見るものだなと、そして板野酔いするためのものだなと考えれば満足できた。