京都アニメーション『涼宮ハルヒの憂鬱』と『らき☆すた』を結ぶもの

京都アニメーションのすごさと現在のオタクの世代差?

id:n_euler666さんのエントリー。僕は作品を通じて世代とか、それが生産された社会とかを語るのは好きじゃないしよくわからないので、id:n_euler666さんのおっしゃることが正しいとも間違っているともいう能力がない。正確にいえば、そのような語り方というのは、客観的に検証しうることがらを語っているというよりも、語っている本人の信仰告白のようなものだと考えているので、それについては正しいとか正しくないとかいう問題ではないと思う。

ただしアニメとかマンガとかは商業生産物であるので、たとえば企画段階でそういう世代、そういう社会を想定するということは十分にあり得る。しかしそれはいうまでもなくそういうものが実在するということには決してならない。僕が思うに、マンガやアニメにおいてそういうものについて語ることができるのは、作り手側の販売戦略という観点からだけだ。それがまさに僕がいままで繰り返し語ってきた「萌え」である。僕の懸念はこの萌えなるものがアニメを語る上で障害になるのではないか、アニメを語るその語りに感情を混入させてしまう虞れがあるのではないかと感じてきたが、いまのアニメというものが萌えをめぐっての受け手と作り手の共犯関係によって大部分が構成されているとすれば、それを避けるのは残念ながら不十分であるといわざるを得ない。

というわけでこのid:n_euler666さんのエントリーは考えるきっかけを与えてくださったわけだが、それはこのタイトルの後半(「現代のオタクの世代差」)の部分ではなくて、前半の京都アニメーションについてである。僕はかつてどうして京アニはこんなに寡作でいられるのだろうと問うたが、それについては6月15日のエントリーであらたさんがコメントなさったように、会社の規模の問題が大きいのかもしれない。ただ、ちょっと思ったのは単に寡作なのではないのではないか、ということだ。一言でいってしまえば京アニは戦略的に作品を個別のものとして考えずに「作品群」として考えているのではないかということだ。『フルメタルパニック』系、Key系(『AIR』『Kanon』『CLANNAD』)というかたちだ。これらの作品群の特徴は、作品群内外の多くの作品(アニメとは限らない)を参照しているということだ。そうすることで入口を広げることができる。ラノベを読んだもの、GONZO版、出崎版、東映版のアニメを見たもの、原作のエロゲをプレイしたものなどをこれらの作品群に導き入れることができる。こうすることで一作品あたりの利益を単独で制作するよりも多く獲得できるようになるのではないだろうか。だとしたら、仮に京アニがもっと大きな規模も企業だとしても、たとえばGONZOのように作品を量産するようなことはないのではないだろうか。なぜなら作品群を構成するために選択される原作やテーマは限定されるだろうから。

これをふまえた上で『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』を一つの作品群として捉えたならば、これらが全く別の作品群の構成を見せていることがわかる。パロディ、というと事態を単純化させてしまう。というのは『らき☆すた』の『涼宮ハルヒの憂鬱』に対する関係は、前者と『コードギアス』、あるいは『D.C. 〜ダ・カーポ〜』との関係とはやや質を異にしていると考えられるからだ。つまり単にほのめかしているだけではない、なんというか、有機的につながっているというか、企画段階でセット売りしてしまおうという意図が見えるというか、そんな感じがするのだ。

まず容易に思いつくのが声優のキャスティングだ。主人公の平野綾、そしてらっきー☆ちゃんねる白石稔らのキャスティングは決して偶然ではないはずだ。想像するに、『涼宮ハルヒの憂鬱』を企画する時点で、そのあとの作品でこういった声優による相互参照という戦略は既に立てられていたと考えることも充分可能だと思う。こうすることで、たとえば『らき☆すた』でのこなたのバイトのシーンをみた視聴者が『涼宮ハルヒの憂鬱』に興味をもつということや、白石って何ものだ? とか思って初めて『涼宮ハルヒの憂鬱』を見る視聴者もでてくるだろう。id:n_euler666さんはこういった「『らき☆すた』を経て事後的に『涼宮ハルヒの憂鬱』を見る視聴者」の存在を看過しているように思えるが、こういった層はおそらくアニメを売る側にとっては非常に重要である。

で、こういった戦略を可能にするのが、僕が声優について語ったときに触れたアニメ放送終了後に行われる広告戦略だ。かなり単純化していうならば、『涼宮ハルヒの憂鬱』と『らき☆すた』の関係は、『うたわれるもの』と『うたわれるものらじお』との関係に匹敵する。ここでも重要な役割を担うのは声優である。ただいうまでもなく『らき☆すた』もアニメ作品なので『涼宮ハルヒの憂鬱』の存在によって『らき☆すた』自体も盛り上がらなければならないが、まさにそれをするために『涼宮ハルヒの憂鬱』第二期の制作発表や『涼宮ハルヒの激奏』のDVD発売を『らき☆すた』放映中にぶつけるのだ。

このような戦略をとっている制作会社はほかにあるのだろうか、(謙遜でなくマジで)寡聞にして知らない。ともかくこういった戦略はアニメ業界の窮状が伝えられるなか、ある程度有効な経営スタイルになるのではないだろうか。僕のいったことが妥当だとして、こういうやり方はある程度制作する作品を限定するので、残念なところがないではない。僕としては『TSR』のようなロボットアニメもたくさんつくってもらいたい。でも見るけどね。