サテライト『創聖のアクエリオン』

ニコニコ動画が主な情報源の僕としては、この『創聖のアクエリオン』と前に見た『蒼穹のファフナー』は二大「本編よりも主題歌の方が有名なロボットアニメ」だ。まあそれはともかく、このふたつを続けてみたのはよかったかもしれない。

その理由はもうちょっとあとに書くとして、シリーズを通しての感想は、まあバカアニメだなということだ。基本的に「燃え」が各所に見られるということもそうなのだが、制作者側の意図として笑いを組み込んでいこうという態度が見られる。そもそも主人公たちの上司というか教官みたいな人で不動GENというキャラがいて、この男はいわゆる「何でも知っていて何でもできる人」なわけだが、この男の言動が笑える。女装とかもしたりする。そしてロボット自体は格好いいのだが、ロボットが繰り出す技がもうなんかすごい。「不幸最低拳」とか。なるほど、同じ制作会社の『キスダム』がいまいち面白くないのは笑いの要素がないからか、と気づかせてくれた。

というわけで『アクエリオン』と『ファフナー』のふたつの作品を比べてみてわかることは、両方ともロボットが他者と出会う場として機能しているということだ。しかしその意味が全然違う。反対といってもいい。『ファフナー』においてはここでの他者との出会いというのは敵、つまりフェストゥムの侵入と言い換えることもできる。そして搭乗者が侵入されつくすと命を落とすことになる。おそらく搭乗する瞬間にひどい苦痛を感じるのはそのことと無関係ではないと思う。それに対して、『アクエリオン』の場合、その出会うのは敵ではなくて、ほかの搭乗者、つまり仲間だ。仲間同士の出会い、接触といってもいい、それは性的な意味を持つことになる。端的にいえばそれは快楽だ。『ゲッターロボ』以来、合体するロボットを扱ったアニメは少なくないと思うが、その合体を釣りバカ日誌的な意味で捉えたロボットアニメはこの作品以前にあったのだろうか。そのあたりはアニメ初心者の僕にはわからないが、少なくともこのことがこの作品全体を規定している。一言でいってしまえば、ロボットに搭乗するということは、『ファフナー』にとっては強姦だが、『アクエリオン』にとっては和姦だということだ。

このアニメはどちらかというと「燃え」を重視するアニメなので(しかし想像するに、監督の河森正治は「燃え」がどうこうというよりも、ロボットを変形させていろいろ動かしたいと思っていて、そのために「燃え」というものを利用しているのだろうが)、いわゆるロボットアニメ右翼な感じなのだが、ある問いを設定してみるとちょっと面白い。

それはやはり敵というものにかかわってくる。もしロボットが他者との接触による快楽の場であるとするならば、そこに敵がはいってきたらどうなるのか。これがまさに最終回である。ロボットを媒介にして、人間と堕天翅が合一する。こうなるともう戦う必要はない。本来ならばこの戦いは和解のありようがないものであった。というのは堕天翅はいたずらに人間たちを殺しているのではなく、捕食していたからだ。つまり生きるため人間たちの生体エネルギーであるプラーナなるものを奪っていたのだ。つまり堕天翅たちを殲滅することはいってみれば生態系を崩すことになる。実際に最終決戦の地であるアトランディアの中心にあった「生命の樹」が枯れてしまうことで生態系が崩れかけた、というか地球上に生命がなくなりかけた。だからこれはもし人間たちが勝ってもすっきりしない感じになるのかなあとか思っていたら、人間と堕天翅が合一するときた。その発想はなかった。前のATフィールドの例を持ち出すならば、『ファフナー』はATフィールドを極小化したのに対して、『アクエリオン』はそれを極大化した。結果敵がいなくなる。

まあ本当に『ファフナー』と比べるのが妥当なのかわからないが、ロボットに関することだけでなく、全体の雰囲気も『ファフナー』における陰鬱さ、ペシミスムに対し、『アクエリオン』はシリアスな場面でも暗さがない。前述の笑いの要素がこういう対照を生んでいるように思う。

ちなみに『創星のアクエリオン』の方は本編とストーリー的につながっていなかった。そして笑いの要素がほとんどなかった。まあまだ後編がでていないので何ともいえんが、違う作品としてみた方がいいのかもしれない。ただ不動GENは何者かということは本編でははっきりとは示されていなかったが、『創星』の方で明らかになるのかもしれない。