ノーマッド『ローゼンメイデン』および「萌え」と「燃え」

マンガ版は7巻ぐらいまで持っているけどまだ読んでいない。というわけで何の予備知識もなくアニメを見た。いまのところ第一期だけ。トロイメントについては時期に見る。主人公、というかヒロインの名前は真紅というのだが、シンク、というといがらしみきおの『Sink』を思い出す。書店で見つけて「あ、『ぼのぼの』の人だー」とか思って何の気なしに買って読んだのだが、なんかかなりへこんだ。内容はあまり覚えていない(あるいは抑圧した)のだが、とにかくあの『ぼのぼの』を描いた人とは思えないようなきつい内容のマンガだということは覚えている。

まあそれは『ローゼンメイデン』とは関係ない。さてこの『ローゼンメイデン』についてだが、書きながらまとまりをつけるために結論からいってしまうと、見ながら「萌え」と「燃え」について考えた。もちろん「『ローゼンメイデン』って萌えるし燃えるよなあ」という話ではない。「萌え」も「燃え」も同じようにアニメを語る場において重要な用語というか概念だったような気がするが、それはアニメを語る人たちが、アニメ作品そのものの中に(本来的に、ではないにしても)これら「萌え」「燃え」を見出してきたからだ。しかしこれらの概念はアニメを蝕んではいないだろうか。そんなことを考えた。

ウィキペディアではなんかいろいろ萌えについて説明されているが、「萌える」という言葉は統語論的にいって「感情を表す」主体(主語)、「感情を促す対象」、どちらの述語ともなりうるというところが示されている。「私は翠星石に萌える」「翠星石は萌える」とどちらもいえるということだ。「注射は痛い」といったようなものだ。要するに萌えるというのは、もともと(というのはアニメとかの文脈で使われてから、ということだが)はある感情を示す言葉だったのだろうが、いまはそれはその感情というものを起点にしたある種の関係性を示す言葉になっているということだ。つまりアニメのキャラとその受け手との関係ということである。その関係はフィードバックの関係といえるだろう。ある特定のキャラがものすごく人気が出たとき、次のアニメを制作するにあたって、その人気を参考にして類似、あるいはそれ以上の関係性を作り出すようなキャラを考える、と。このように作品と作品外の関係性のひとつのあり方を萌えと名付けたのではないだろうか。

このような形式的な観点からいえば、燃えというのも同様であるということができると思う。以前『グレンラガン』について同様のことを書いたが、要は気合いだ。ある登場人物が(不安や迷いを脱したあとの)決意や決断をもとに直接的、主体的に目標に向かっていくときにいわゆる「燃え」が生ずるのだと思う。しかしそれだけではダメで、そのような燃える感じが受け手側にいわば伝播することが必要だ。つまりこの場合も作品と作品外の関係性が問題となる。しかし異なる点があって、それは、「萌え」の場合はその萌えるキャラが萌えという感情を持っているわけではない。そのキャラはあくまでその感情を作品外の受け手に与えるだけである。まあ『ひぐらしのなく頃に』の竜宮レナは例外だが。それに対して、燃えに関してはそのキャラ自身が燃えている。キャラ自身が燃えているのを見て、受けても燃えるわけだ。ミメーシスの関係にある。

僕がこのふたつの要素がアニメを蝕むと書いたのは、これらが外部との関係性の謂いであり、たとえば受け手が萌えることに制作する側が汲々としてしまうのではないかと思ったからだ。客にこびるな、といっているのではない。そうではなくて、客は変わるということをいっているのだ。多分いまだっこちゃんに萌える人はいない。そういうことだ。つまりこれは外部に対する依存なのだが、依存が問題なのは倫理的な問題でもちろんない。問題なのは依存する対象がいつまでも同じようなものである保証はないということだ。翠星石はどうやら2006年の最萌トーナメントで優勝したとのことだから、去年一番萌えたキャラだったということなのかもしれないが、それがそれこそ100年後とかにそうである保証はどこにもない、というか多分違う。これはアニメだけに限らないだろうが、発表されたその時だけもてはやされたものよりも、長く評価されるものの方がいいと思う。もちろん萌え系のアニメがすべてダメだというわけではない。そうではなくて、萌えという概念そのものに本質的な問題があるのではないかといっているのだ。

燃えについてはどうだろうか。これは萌えよりも歴史が長いだろうし、僕はこのキャラが燃えるという現象についてはむしろアニメというより少年ジャンプ系のマンガでよく見かける。なぜならばそれは少年の成長と結びついていることが多いからだ。少年は迷い、不安に苛まれる。その迷いや不安から解放されたときに少年は燃える。そもそも解放されるということが嘘くさいわけだが、それはともかくそういった桎梏から解き放たれたとき、少年は目的を明確にとらえ、そこに向かって直接的に突き進んでゆく。「直接的に」ということが重要だ。これは明確にロボットの否定である。なぜならロボットとは媒介だからだ。そもそも操縦席で叫んでも何の意味もない。しかし一部のアニメはこのロボットの媒介性を否定するかたちでロボットを利用している。とりわけセカイ系のアニメに撮ってはロボットは不必要なものであるどころか、あってはならないものだろう。だから『エヴァ』のようにロボットと搭乗者が有機的につながっているというような設定を必要とするのだ。セカイ系でなくても、たとえば『フルメタルパニック』におけるようにロボットと搭乗者の間にラムダドライバとかいうよくわからないものをおくことで搭乗者の精神状態によるロボットの影響とか、搭乗中の気合いとかが正当化される。ちなみに『ローゼンメイデン』は明らかに主人公のJUMの成長の物語として捉えることができ、また最終回には上に述べたような不安や迷いからの解放のシーンも現れるのであるが、燃えない。なぜならばそれは戦っているのが彼自身ではないからだ。あえていうなら彼の目指すべきところは真紅の右腕であって、敵である水銀燈ではない。真紅が右腕を取り戻したあとであっても彼のすべきことは真紅を守ることであって、水銀燈を攻撃することではない。…なんか書いてきて別に燃えはいいんじゃないのかとか思ってきたが、僕自身のことでいえば、少なくとも同じような感情は共有できないということは間違いない。あとロボット左翼としては、叫べばいいってもんじゃねえよ、と思うところがないではない。まあ細かい話は『ガオガイガー』あたりを見てから判断すべきなのだろう。

多分萌えも燃えも作品と作品の外を結んで、作品について語る場を形成するためのとっかかりのようなものなのだろう。だけどそうすることによって作品そのものを語ることがきわめて少なくなってしまったのではないか。僕はあらゆるジャンルを横断的に語る語り口にあまり信用をおくことができない(僕自身もしばしばやってしまうが)。まして作品を通して「社会」を語るなんてもってのほかだ。しかしそういう語りをするためには多分「萌え」ってものは非常に便利だったのではないだろうか。僕は作品そのものがそういう語りに抗うことを望む。アニメは「萌え」からも「燃え」からも脱却すべきではないだろうか。