新海誠『秒速5センチメートル』

これで『彼女と彼女の猫』と『ほしのこえ』と『雲のむこう、約束の場所』と、新海のアニメはすべて見たことになるのかな。ほかにあったっけ? 

確か制作にかけられる人やら金ってのは映画が一番多いらしく、次にOVAでテレビアニメが一番きつい状況らしい。そんなことを考えたのはこの『秒速5センチメートル』がとても細かい仕事をしているように素人には見えたからだ。いろいろ取材したんだろうなと思わせる。確かに栃木の電車はボタンを押さないと扉が閉まらない。まあ取材は誰でもしているだろうが、確かこの作品は新海本人が美術監督をしていたような気がする。ということはそういう背景とかにかなり意識を集中してつくっていたのだなあと思わせた。

見たことがある人に聞くと泣けるとかいう意見があったのだが、僕はそうでもなかった。これよりは『ほしのこえ』の方がずうっと泣けた。それは何でかなと考えてみて強引に引き出した結論を書いてみる。

泣ける物語というのは、だいたいが喪失にかかわっていると思う。大切な何か、誰かを失う、これが涙を誘う。しかしよく考えるとこれにはふたつのタイプがある。これはどう失うかという失い方の分類ではなくて、それをどう描くか、もっといえば失った当人がその失うという物語の中でどう位置づけられるかという分類である。端的にいうと、失う瞬間に向けて進行する物語が一方にあって、他方に失ったことを認識する瞬間に向けて進行する物語がある。大切な何ものかを失ってしまう物語と、大切何ものかは失われていたという物語だ。僕の好みでいえば、後者により心うたれる。なぜならば僕はつねに自らの喪失について敏感であるように日々を生きていないからだ。失ったことにはいつもあとで気づかされる。だいたいが失う瞬間の認識というのはおそらく知識や経験によるものだ。大切な人が死ぬ。しかし死ぬとはどういうことだろう。よくわからない医療機器がそう示し、医者がそう宣告する。それをもってこの人が死んだと理解する。だがこのことをもってその人を失ったとは必ずしもいえない。しばしば、『コスモナウト』にあるように、失う瞬間の認識は淡々と、静かになされる。だから(見たことも読んだこともないが)『世界の中心で愛を叫ぶ』は僕にとって泣けないだろう。

悲しいのは、失った瞬間からどれだけ自分が隔てられてしまったかを認識することなのではないだろうか。あのときに失ってしまったのに、そこからいままで無為な時間を過ごしてしまったと。失ったことを事後的に認識することによって、自らの過去が失われていたということを知る。多分、失う瞬間に立ち会う人は未来を思う。あの人のいない未来、大切な何かを失った味気ない未来を思い絶望する。失われていたことを認識する人は逆に過去を思う。そしてそれなりの色合いを持った過去の出来事が一気に色あせる瞬間に立ち会うのだ。大切なものを失う瞬間にいる者は同時に乗り越える機会を与えられる。なぜならば未来はまだ決定されていないからだ。それに対して失われていたことを認識する者にはそのような機会は与えられない。前者と同じように「乗り越える」という言葉は使えるかもしれないが、問題になるのはその過去を受け入れるかどうかだ。

物語の構成という点についていうならば、前者の物語においては失う瞬間、別れる瞬間が最も劇的になるし、そのシーンをいかに表現するかが問題となる。しかし後者においてはそのようなシーンはそれほど問題にならない。表現する必要すらない。このような対立は『秒速5センチメートル』と『ほしのこえ』のそれそのものではないだろうか。後者においては二人の別れは確か描かれていなかったように思う。むしろ後のメールのやり取りを中心に物語が進行する。そしてそのメールの着信そのものがこの物語において途方もない過去を喚起する。何年も前にヒロインから送られたメールを受信することによって、ヒーローは彼女なしで過ごした何年間を想起する。彼は彼女のことを思わなかった時があるだろうか? しかし同様にそのこととは関係なく日々の生活を続けている。前者は決別の瞬間を描く。踏切を電車が過ぎ去ったあと、彼の心の中で何かが変わり、吹っ切れたのかもしれない。逆に言えばそれまで何かわだかまりを持って生きていたのかもしれない。同じように彼はヒロインのことを思い続けていただろう。しかしあの踏切での一瞬のすれ違いで彼はそれを放棄できたのだろうか。

僕がこの作品に大きな疑問を抱いたのはその点だ。突飛に見えるかもしれないが、この疑問は前述した「燃え」アニメに感じた疑問と関連している。両者に共通しているのは、迷い/不安→決断という展開である。既に述べたように、「燃え」とは迷いや不安を脱して目的に向かって邁進できる様である。形式的にはこの作品の主人公も最終的に自分を縛っていたある種のもやもやを脱する(ように見える)ことになる。なぜこのような進行に疑問を持ってしまうかというと、それは僕は迷いや不安と決断はつねに同時にあるだろうと考えているからだ。言い換えれば解決はしないと。迷いや不安から抜け出すことはできない、我々はその中で生きている。喪失の瞬間を描こうとする物語は、そのあたりを単純化しているのではないかと思えてならない。

そんなわけで『ほしのこえ』のほうが『秒速5センチメートル』より泣けたのだが、おそらく本当に素晴らしいと思える作品は、このように理由づけできる泣ける作品ではなくて、たとえば、アニメではないが、先日亡くなったエドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の思い出』のようにわけわからず泣ける作品だと思う。二回見たが、一回目は最初の結婚式のシーンで、二回目は居酒屋でイッセー尾形が英語喋っているシーンでなぜか号泣した。