グレンラガンあるいはロボットアニメの右翼と左翼

何となく『天元突破グレンラガン』の15話を見てロボットアニメについて書いたのだが、ニコニコ動画のロボットアニメの感動的な場面ベスト30とかいう動画をみて、かなり自分の認識を改めさせられた。で、いろいろ編集するのが面倒くさいので、以前に書いた文章をそのまま載っけて、そのあとで自己ツッコミすることにする。

☆☆☆
要はロボットアニメとはなにかって話なのだが、ジャンル論ということよりも、ロボットと呼ばれうるものがどう機能しているか、ということにより興味がある。

よくいわれる話だろうが(確かアニメ夜話で元U-turnの土田も言っていたと思うが)ガンダムの新しさは、これまでのアニメにあるような主人公の乗る/操作するロボットはつねに善い者で、勧善懲悪的に相手を倒すといったようなタイプではなく、敵にも敵なりの事情があり、主人公が必ずしも正しいとはいえない、というかどちらが正しいかって問い自体がナンセンスであるというところにあるらしい。もちろんその周辺のアニメを見なければ本当にガンダムが最初のそういうタイプのアニメなのかわからないが(しかも土田はガンダム以外のアニメの知識があんまりなさそうだといわれているらしいが)、まあ細かいことはいいとしよう。

一応この話は大雑把に信じておくとしよう。この話を僕なりに翻訳すると、こうなる。つまりアニメに政治が導入された、と。この場合の政治とは何か、ということだが、それはたとえば目的に対して手段を優先させること、そのために目的への最短距離からの逸脱をもやむなしとすること、もっと端的にいうと譲歩すること、ということになろうか。それは敵に対してだけということではない。味方同士においても同様な譲歩が必要となってくるはずだ。なぜなら味方同士で目的を完璧に共有しているとは限らない(というかあり得ない)からだ。端的にいえばそれは大人の世界である。子供はそこから完全に排除されている。その意味で子供とは非政治的な存在だ。僕が「子供」というものに対してもつイメージというか偏見はこの非政治性からくる。

まあそれはいいとして、ロボットとはこの政治の場と非政治的な子供を結びつける機能が多くのアニメにはあるような気がする。いわば子供が政治へと入り込むための通路のようなものだ。アムロがあの戦争する側の人間として巻き込まれていったのはまさに彼が乗り込んだガンダムのせいだ。ではなぜロボットが政治と結びついているかというと、それは単純にロボットが強力だからだ。強力な兵器は厳密な管理が必要だし、場合によってはその兵器をめぐっていくつかの組織が争うということもあるだろう。『無限のリヴァイアス』なんかがそんなタイプだろうか。逆にそういう厳密な管理やバックの組織がないようなロボットに一般人が出くわした場合、藤子不二雄の短編にあるように、一般人は恐ろしくなってそのロボットを海の底へ沈めようとするだろう。

僕のロボットに関する見方は以上の通りで、多くのロボットアニメはこのヴァリエーションとして考えることができるのではないだろうか。いわゆるセカイ系なるものもこの文脈で捉えることができると思う。いってみれば子供と政治の場との関係の逆転として捉えられるかと。この点でいうと、アムロが「偶然」ガンダムに乗り込んだということは非常に重要で、このことが子供が政治の場に巻き込まれるというある種の不条理をもたらす。だがたとえばエヴァだとむしろ事態は逆だ。あの学校自体がエヴァの乗組員を選別するためのものだし、レイなんかはそのためにつくられた存在だ。つまりネルフという政治の場とチルドレンの関係は必然的だ。より正確にいうならば、本来政治の場とはその中のプレイヤーである誰のものにもなり得ない。権力を持っている者でも、その場の中ではひとつの役割をになっているにすぎず、場そのものを掌握することはできない。むろん場が消滅することもない。だがエヴァでは最終的にそういった消滅が示されているように思える。

まあセカイ系の話はそこに含まれている作品群が何を指しているかについてあんまり同意がなされていないだろうし、されていたとしても僕自身があまり知らないので、これくらいにしておく。ものすごく単純化して、いいたいことはこういうことだ。子供と大人という対立を考えてみよう。一方で子供たちだけで作られる物語があるとする。もちろんそこには子供っぽい大人がいるかもしれない、あるいは物語の外部にいる大人もいるかもしれない。他方で大人たちだけで作られる物語もある。もちろん「お豆」的な存在としての子供もいるだろう。しかしこの場合も子供はマージナルな存在だ。そして最後に大人と子供が作り上げる物語がある。両者は違った規則のもとで行動する。その両者を結びつけるのがロボットだ。

ここでやっとグレンラガンの話なのだが、僕が思ったのは、これほんとにロボットアニメか? ってことだ。もちろんロボットらしきものがでてるからロボットアニメなんだろうが、上でいったようなロボットの媒介としての機能がないように思える。結論からいうとロボットアニメというよりジャンプ的な少年漫画的な感じがするのだ。先ほどいったことと関連づければ、政治がない、ということになる。ガンダムにしてもエヴァにしても、今期の『ギガンティック・フォーミュラ』にしてもまずロボットとそれを管理する組織がある。そこに少年なりなんなりがはいっていくという展開なのだが(エヴァの場合最終的にそういえるか疑問だが)、グレンラガンはゼロから始まる。だから政治も何もあったもんじゃない。政治の欠如はジャンプ的格闘漫画の大きな特徴だ。これを岡田斗司夫は「気合いで戦いに勝つ漫画」とかなんとかいっていたと思う。ちなみにこの観点から見ると『ハンター×ハンター』がいかにジャンプの中で例外的な漫画かがよくわかる。操縦している人の気合いが大事なロボットアニメがグレンラガンなのだが、どうなんだろう、こういうアニメは多いんだろうか。ニコニコでアニソンとか見てると熱い曲が多いので、もしかしたらそういうアニメは多いのかもしれない。まあいずれにしても、気合いで戦いにかって都合よくぽんぽん進化してしまうのはある意味でジャンプ的な能力インフレに近いかもしれない。要するにガンメンってのはロボットじゃなくて操縦している人の身体の延長だ。だから実際に喋る。

ニコニコとか見てると、肛門問題にも関わらず結構人気あるようだが、どうなんだろう。ロボットとか好きな人ってのはSFとかハードSFとかが好きな人なのかなあとか思ったのだが、そうではないのだろうか。そういう観点からすると突っ込みどころ満載なような気がする。まあいずれにしても僕にとってはこれはロボットアニメというよりジャンプ的な少年漫画のようだ。そして両者は本来的に両立しない。もしかしたら僕の見方はおかしいのかもしれない。

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僕はどうやらいわゆるリアルロボット関係のアニメばかり見てきたのかもしれない。ウィキペディアによると、スパロボが出てきたことで、事後的にリアルロボットとスーパーロボットという区別ができたようだ。スーパーロボットの定義は次のようなものらしい。「作品中では唯一無二の存在であり、主人公ロボと全く同型のロボットが登場することは無い(旧型、新型、改良型などが登場することはある)。悪と戦うスーパーヒーロー的に描かれることが多い。」最近のアニメではこういうロボットはほとんどないだろうが、ここで重要なのは、そのロボットの操縦に関する主導権の争いとかにはほとんど焦点が当てられず、むしろ自明である敵との戦いが問題となるということだ。まさにグレンラガンだ。注目したいのは、ニコニコでロボットアニメを褒めるときによく使われる言葉が「熱い」ということだ。確かにグレンラガンの15話は熱かった。僕がよく見ていた、そして僕が想像するロボットアニメにはそういう「熱い」要素はあまりないように思う。これには多分理由がある。その理由は部分的にはもう説明したと思う。もうちょっと説明すると、熱いかどうかということは、迷いがあるかどうかということと関連していると思う。迷いがあると熱くはなれない。たとえばグレンラガンの15話についていえば、さしあたりのラスボスであるロージェノムはヒロインのニアの父親であるのだが、シモンもニアも彼を倒すことに迷うことはない。だからロージェノムに対峙したときよけいなことを考える必要はない。熱さというのは目的に向かって直接的に向かっていける様のことを言うのだと思う。譲歩が有効な手段である政治とは全く逆だと思う。べつの言い方をすれば、熱くなるためには自分のことをまず考える。そして自分のパワーみたいな物をどこかにぶつける。それに対して僕が想定していたリアルロボットアニメは自分ではなくて、それを取り囲んでいる世界をまず思考する。その中で自分がどのように位置づけられているか、それぞれのキャラがどういう関係性を持っているかが重要な問題だ。で、その関係性のあとに自我そのものにたどり着く。これってもしかしたら、右翼的思考と左翼的思考の対立そのものじゃないだろうか。論理より情念、これが熱さであり、これを単純化してスーパーロボット系といってみる。その逆、論理を情念に優先させる思考がまさに政治であり、リアルロボット系だ。ニコニコのベスト30で興味深かったのは、高橋良輔のアニメがほとんど出てこなかったということだ。実はまだ彼の作品は一作も見ていないが、巷間では彼をリアルロボット路線の急先鋒と呼んでいるらしい。

なんかうまいこと図式化できたかと思う。うまいこと図式化できたということは、かなり細かいことを無視して単純化したということだが、まあ導入としての単純化は細かいものを理解するのには有効かなと。