手塚治虫『火の鳥』

久しぶりに読む。初めて読んだのは確か中学ぐらいだからだいぶ昔だ。あと当時アニメも見たな。アニメで見たのは確か宇宙篇だったと思うが、そこにでてくる植物化した動物が気持ち悪くて、しばらくインゲンとか枝豆とか見ると思い出してやだったな。まあおいしく頂いてはいたが。

十何年も前に読んだきりだったので内容はかなり忘れていた。今回も文字が多いところは面倒くさかったのでかなりすっ飛ばして読んだのであんまり把握してないが、でも大昔に読んだものを再び読み直すのもいいかもしれない。

今回読んで思ったこと。中学の頃読んだとき、その理不尽さに憤った、とはいかないまでも、違和感を感じた。何で猿田はあれほどまでに罰を受けなければいけないのか、脇役でもっと悪いことしているやついるじゃないか、とか。火の鳥が裁くものであるなら、もっと公平に裁かなければいけないのではないか、裁くのが神であるなら、神はもっと平等でなければいけないのではないか、とか思っていた。でも今回読んでみて、むしろそのいい加減さ、裁きの恣意性が神を神たらしめているもの、そして世界そのものであると思うようになった。もし手塚がいいたいことが命の大切さとか、争う人間たちの愚かさだとしたら、火の鳥の裁きそのものが人の命を無駄に失わせたり人々を無用に争わせたりしているわけで。だから火の鳥(神?)は裁いているのではなく、むしろ裁きは存在し得ないということを証明しているように見える。つまり出来事がすべて終わったあとに超然たる神によって行われる裁きがあるのではなく、出来事における火の鳥の介入こそがその出来事をさらに紛糾させ、場合によってはより悲劇的な結末をもたらすこともある。火の鳥は空から人間たちを俯瞰しているようだが、しかしすべての出来事を見透かしているわけではない。したがって火の鳥と違う観点からすればその判断は非常に恣意的に見える。もし猿田がつらい境遇にあるとしたら、それは彼の行いの報いであるというわけではなく、また火の鳥によってそうなったというわけではなく、むしろ火の鳥も猿田もともにしたがわなければならない何かがあるということなのではないか。我々はそれを適当で恣意的なものとしてみることができない。