よしながふみ『それを言ったらおしまいよ』

何となく読む。『西洋骨董洋菓子店』はもってるけどまだ読んでない。正直ちょっと敬遠していたところもあるが、読んでみると結構面白かった。この人の本はもって読んでみたいと思わせてくれた。

で、内容とあんまり関係ないのだが、この短編集の中に「自分以外の人がみんないなくなってしまえばいいのにと思っているいじめられっこ」の話があるのだが、その中で「いじめられている人は人の痛みがわかるなんて嘘だ」って台詞があった。感情というものは教育によって得られるわけで、親が暴力を振るうような家庭では暴力しか教えられないから、子も暴力的になってしまう、と。その通りだなと思った。よく「いじめられる人にはそれなりの原因がある」とか、「いじめられやすい人がいる」ってのはその意味ではむしろ順序が逆で、いじめられるからそういう原因をいじめられっこが自分の中につくってしまうのであって、いじめられるからいじめられやすい人になってしまうのだと。ううむ。正しすぎる。要はいじめという現象の外でいじめを見なければいけないということか。いじめという現象の中でそれを見ると「この人はいじめられやすい」とか「いじめられっこ自身にいじめられる原因がある」というのは一定の妥当性をもってしまう。なぜならまさにそういう見方をつくるためにいじめという現象があるのだから。いじめという現象は、いじめる/いじめられるという関係性をつくるだけではなくて、いじめという現象そのものの根拠を事後的に作り出すのだと思う。「根拠」を「事後的に」という点で錯綜している。「根拠」というものはその現象の前提となるものと考えられるからだ。だけどその根拠は事後的につくられる。このことはいじめだけに限ったことではないとは思うが、いずれにしてもいじめに関してはその通りだ。このことを看過するからアホな人はナイーヴに「いじめられる人にはそれなりの原因がある」とかいってしまうのだ。