『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』

どうやら放送中に論争がおこったらしいが、いったいどんな論争だったのかいまいちよくわからなかった。まあこの作品を支持する/支持しない、って論争なんだろうが、何が論点になっていたのかいろいろ探してみたが見えてこない。
ぼくの感想ではまあ面白かったし、確かに第4話では泣いたが、別に論争するほどのものではないのではないだろうか、とか思った。とにかく物語の作りとしてはぼくには典型的に見えた。中心に透明な存在がある。その透明な存在を前にしてまわりの登場人物たちは自らの内面や自らを取り巻く環境などに向き合う。時には反省したり間違いに気づいたりしながらまあ成長していく。そして何かを成し遂げる。こう考えたとき真っ先に思いつくのはいくつかの少年ジャンプのマンガだ。例えば『ワンピース』のルフィや『ハンター×ハンター』のゴンはこのような透明な存在だ。迷いなく明確な目的に向かって突き進む(必ずしも最短距離ではないが)。成長するのはまわりの人たちであって、本人は成長しない。正確にいえば成長すべき内面性を持ち合わせてはいない。はっきりいって傀儡にすぎない。ぶっちゃけていえばそんな人存在しないよね、とか思う。この作品に入れ込むことのできる人ってのは、たぶんこういった透明な存在に自らをうつすことのできる人なのかなとか思う。どうなんだろう。

たぶんこの主人公は人じゃなくて場なんだと思う。他の登場人物たちはまなびという存在と対峙/対話するのではなくて、まなびの存在を前提として登場人物相互に対話すると。でも本当はその場を作ることが一番大変なんだよね。つまりこのアニメはその一番大変なことについてははじめからクリアしてしまっている。さっき挙げた『ワンピース』や『ハンター×ハンター』では確かに主人公はある出会いの場になって入るが、個々の登場人物はそれぞれにべつの目的があるから、まあその場自体がなくなっても自らの目的に向かって進むことにはなるだろう。しかしこのアニメではそれぞれの登場人物はあらかじめ何らかの目的を持っているというわけではない。目的そのものもまなびという場を与えられて初めて獲得されている。まなびは神のような存在であるといえると思う。その意味でいうと、こちらでいわれていることはちょっとどうかなと思う。次のようにいわれている。

言葉の意味はあくまでも話し手と受け手のコミュニケーションによって決められていくのだ、という事実を創作原理まで高めたのが『まなびストレート』という作品なのだと僕は思います。

この部分はこの作品についていわれたことをまとめたこちらにも引用されている。言葉の意味がコミュニケーションを経ることでいかようにも変化してゆき、そのことによってなんでもない生徒会の風景を写した映像が強いメッセージとなってゆくということを受けての言葉だ。ぼくはこれは端的にいって間違いだと思う。言葉の意味はコミュニケーションによって決定されるのではない。言葉の意味とコミュニケーションがある場によって同時に決定されるのだ。ここではバフチンを援用しているようだが、彼はそのことにかなり意識的だった。だから彼は文学という枠の中でのみ彼の理論を当てはめていったのであり、文学という場において(彼のいう)ポリフォニーや対話が成立するということを知っていたのだ。これを文化人類学や他のジャンルに応用しようとする者はことごとくそのことを看過している。
まあそれはともかく、こういったコミュニケーションの場がこの作品の場合、学校でも2035年という時代でもなく、まなびという一登場人物だったのだと思う。ぼくはどちらかというとそういった場自体が生成されたり崩壊したりしてゆく物語の方により興味を持っている。