ufotable『コヨーテラグタイムショー』

まなびストレート』を見ようと思ったのだが、同じ制作会社のufotableがつくった『コヨーテラグタイムショー』をその前に見ておこうかなと。ウィキペディアによるといまのところここの元請けはこの2作品だけらしい。はっきりいって前情報は全然なく、どうかなと思ったが見始めたらノンストップで全部見終えてしまった。

主人公は「ミスター」と呼ばれる海賊(といっても宇宙を飛び回るのだが)で、その彼が死んだ友人の娘たちと一緒にその友人の遺したお宝を探すという話。以前のエントリーでも書いたが、僕はどちらかというとガキが戯れている話より、大人の人たちが作る話の方が好きなのだが、それは性的嗜好とかそういうことではなく(それもないことはないが)、ストーリーの展開とも関係している。ある人や集団が一定の目的のもと動いているとき、その仲間や主人公自身がとんでもないへまをして、それで物語が進展していく、ってのが我慢ならない。で、だいたいそういうへまをするのはガキってことが多い。ドラマでいうと『ライアーゲーム』の神崎直みたいな感じだ。すべての登場人物がそのとき最も適切な行動をとるのが望ましい。悲劇というものは、登場人物がベストの行為をしてもなお、不可避的なカタストロフだと思う。

とはいえ結末が悲劇的であるということはあんまり問題視していない。様々な意図が錯綜するとき、政治的戦略というよりも非政治的な素朴さが優先されるというのが、少年漫画的な物語構成にある意味特徴的だと思うのだが、なんかそういうのがどうにかならんかと思う。なぜ政治的戦略が優先されるべきだと思うかというと、それは自分(たち)の力だけではどうすることもできないような物語を動かす力というものが外在的にあるはずだからだ。たとえば少年ジャンプ的な作品群においてはそういう外在的な力は看過されがちだと思う。ぽんぽんジャンルを横断してしまうが、たとえばハードボイルドというのはそういう力に対して無力と、それでもそういった世界の中で生存しなければいけないという、というか生存してしまっているという強固な事実性を示しいてるのだと思う。ガキにはそういうことが理解できない。そういう意味ではこの『コヨーテラグタイムショー』にでてくる子供はそういう悲劇性を認識して適切な選択をしようとしているという点が素晴らしいと思う。

要はガキがダメだというのではなくて、うざいキャラがダメだということなのだが、しかし『まなびストレート』はガキばっかりじゃんか…。いずれみよう。