アートランド、アートミック、AIC『メガゾーン23』

OVAは短くてよい…、と思ったら一本あたりは結構長くてきつかったがなんとか見た。ウィキペディアの『メガゾーン23』の項目を見ると『超時空要塞マクロス』に対する否定的な回答であると説明されている。これは今までマクロス関連でここで述べてきたことと直接に関係している。つまり、いかに戦わないか、という問いとの関連だ。『超時空要塞マクロス』(特に劇場版)では歌で戦いが終わったが、そんなわけないだろうと。まあ至極当然だ。そんなわけでその辺りについて両者を比較しながら考えてみるのもいいだろう。スタッフもかなり重複しているし、おそらくこれを見た多くの人も『超時空要塞マクロス』を頭に思い浮かべながら見たのではないだろうか。
三部作なのだが三作でそれぞれスタッフが異なり、一作目と二作目ではキャラデザ自体がだいぶ異なるので、同じキャラでも全然違って同一の作品と見なしていいものか考えてしまうが、しかし内容的にはうまいことつながって、特に第二作で物語的には終わってもいいのではないかと素人考えでは思ってしまうが、第三作もかなり面白かった。ただ三作目ではやたら動きがカクカクしているのが気になったが。

話の内容はといえば、舞台はバブルっぽい時代の東京で、バイクを乗り回している主人公がひょんなことでごっついバイクに乗ることになる。それが実はロボットに変形する兵器で、そのためになぞの組織に追われることになる。で、いろいろ逃げたり戦ったりしている間に、実はこの東京だと思っていたところは宇宙から侵略してきた敵から身を守るために地球から脱出したでっかい宇宙船の中だったということが明らかになる。で、主人公が乗っているバイクはその宇宙船を動かしているコンピューターに直結しているとのことだ。でっかい宇宙船に街があるというのは明らかにマクロスだし、可変戦闘機ならぬ可変バイク(ガーランド)もあり、三角関係ではないが恋愛的要素もあり、そして何よりも歌だ。この作品でもアイドル歌手は登場して、歌も歌っているのだが、じつは宇宙船を動かしているコンピューターによってつくられた人工知能で、実体はない。このことはリン・ミンメイがとりわけ劇場版では停戦をもたらすのに対して、この作品では歌を歌っている者は戦争をもたらしている張本人そのものであるという点で対照的だ。
そして最も大きな違いは、この『メガゾーン23』では主人公を含めて多くの市民たちには戦争が行われているということが知らされていないということだ。そして民間人としてそのことを知らされた数少ない者のうちの一人(あるいは唯一かもしれないが)である主人公は軍隊にはいって一緒に戦わないかと誘われる。強力な兵器である可変バイクを乗りこなす主人公なら大きな戦力になる。当たり前かもしれないが、ここで主人公には二つの選択肢がある。軍隊にはいって異星人たちと戦うか戦わないか。そしてこの選択肢は『スクラップド・プリンセス』、『TEXHNOLYZE』、『Ergo Proxy』、『Heat Guy J』などを通じて以前に何度も話題にしてきたことがらと関連する。要するに自分の存在を条件づけるものと自身との関係だ。もし自分ではない他者に条件づけられていたとき、大きな犠牲を払ってでも自立を手に入れようとするか、誰かに支配されていようとも、そのことによって得られる幸福を享受しようとするか。もちろんどちらが正しいということはない。右翼と左翼のどちらが正しいかと問うことにそんなに意味がないのと同様だ。まあそれはともかく、この作品では主人公はどちらかというと後者の選択をしたといえると思う。よくわからねえやつと戦争なんかしてられるかと。それよりも実は戦争をしいてるという秘密を知ったことで軍に友達が殺されたことで、主人公は軍に敵対心をもつようになる。ということで第01話のヤマ場は主人公と主人公を追っていた軍人との一騎打ちの場面だ。
なんでこんなことが起こるかというと、主人公はじめほとんどの市民にとって、自分たちが東京だと思っている場所が実はでっかい宇宙船で、地球はよくわからない異星人(デザルグ)に滅ぼされてしまったということを知らされていなかったからだ。ここで宇宙船について考えなければならない。そもそも宇宙船が舞台になっている場合、上記のような問いは発生し得ない。なぜなら、「生存を条件づけるもの」(つまり宇宙船)が自分(たち)の手にあろうとも、他の何ものかの手中にあるとしても、その宇宙船の外に出ることはほとんどの場合不可能だからだ。それが地球上のある国であれば、国を捨てることができる。だからこそ上の問いが有効なのだ。しかし宇宙船の場合、その外にでるということは多くの場合生存そのものを捨てることを意味する。もちろんその宇宙船の中でどういう自治が行われるかということは問題になりうる。それがまさに『無限のリヴァイアス』だ。しかし強力な外敵が襲ってきて宇宙船そのものを破壊しようというとき、上のような問いにかかずらっている暇はない。『メガゾーン23』では自分たちが生きている場自体が宇宙船であるということを知らされていなかったので、こういう問いが有効になったのだ。それに対して『超時空要塞マクロス』ではほとんどすべての人たちがどういう状況かを大まかには知っていた。すくなくとも自分たちが宇宙にいること、そして自分たちの乗っている宇宙船が攻撃を受けていることぐらいは。したがって宇宙船そのもののが無事であることがまず第一に問題となり、それが個人の自由の問題はとりあえず棚上げできた。しかしそれは単純化にすぎなく、そういった状況であっても自由の問題は常に存続するということを示したのが『無限のリヴァイアス』だった。
まあそれはともかく、形式的にいうならば、『メガゾーン23』は『超時空要塞マクロス』との差異化のため、宇宙船の中で物語が展開されているという事実を不可視化することで個人の自由の問題を前景化し得た。この問題はある種のアポリアなので解決は難しい。したがって『超時空要塞マクロス』のように平和が訪れて大団円、みんなハッピーというわけにはいかない。このことは外敵がいなくなり、地球に帰還した後の物語である第03部でも同様である。