GAINAX『アベノ橋魔法☆商店街』というか『らき☆すた』

懲りずにGAINAX。むかしアフタヌーンを購読してた頃に鶴田謙二のマンガが連載されていたと思う。読んでなかったので今回見るまで内容は知らなかった。なんだか最終回に庵野秀明がからんでいるということで妙に最後だけエヴァっぽかったなとか思ったら、最後の最後でどんでん返しがあってびっくりした。ストーリー的には普通なのかもしれないが、エヴァっぽい終わり方になるのかなとか思っていたらだいぶ違った。まあ脚本家が違うから別に違ってもおかしくないのだが。なんかご都合かなと。

いつもアニメのテレビシリーズを見て思うのだが、どうして作画監督って毎回代わったりするのだろう。たぶん進行の問題とかあるのだろうけど、人件費とか考えても同じ作画監督でやってもらった方がいろいろいいのではないだろうか。進行の問題だとしたらどういう問題なのだろうか。同時に数話作らないといけないということなのだろうか。ただこの作品については内容を考えると毎回作画監督を代えてもっとめちゃくちゃにしてもよかったのではないかと思う。

それはそうとこの作品を見て思ったのはそういった内容とか作画とかではなくて、パロディについてだ。例によってウィキペディアによるとこの作品で毎回何らかのかたちででてくるパロディはその過剰さゆえに放送当時もかなり話題になったようだ。肯定的に受け入れられたのか否定的だったのかはわからないが。で、今やっている『らき☆すた』。大変話題になっているらしい。まあそういったパロディなりほのめかしなりがいいか悪いかいってもしょうがない。そういうのは単に見ている側の信仰告白でしかないし。『らき☆すた』ごときで信仰告白することもないだろう。ここで問題にしたいのはどういうパロディかということだ。何となく思ったのだが、『らき☆すた』でパロディとかいわれているものって今回見た『アベノ橋魔法☆商店街』でのパロディとかとちょっと違うのではないかと思った。

とりあえずパロディというものについて。例によってウィキペディアしか見ない怠惰ぶりだが、何となく日本語の方はしっくり来なかったのでフランス語の方を参照した。

パロディとは実在し、対象となる受け手に既知の作品の構成、登場人物、表現、機能などを活用したユーモアの一形式である。その作品と俳優や作者がその作品を利用するその仕方との間のズレによって笑いが引き起こされる。

こんな感じ。まあこの定義は非常に広すぎて何もいってない可能性がある。たとえば演劇の場合、俳優と作者(劇作家)で作品との関係性は異なる。それと機能とは何か、って問題もある。普通に考えたら、たとえば詩における修辞的な効果とかがあるだろう。しかしものすごい拡大解釈をすればたとえば文学作品であれば文学史上の位置づけということもそこに含めることもできるかもしれない。というわけでいろいろ問題のある定義だとは思うが、重要なのは言及する側と言及される側の間のズレである。でもこればっかりに注目するといわゆるパロディから逸脱する可能性が高いので、以後、より大雑把に言及という言葉を使うことにする。

で、このズレについて。今回見た『アベノ橋魔法☆商店街』で、わけわからん世界から現実の世界に帰ってきたと思ったら、ヒロインのおじいちゃんがなぜか小津映画の笠智衆みたいになっていてカメラの位置とか台詞とかがあからさまに小津を思わせる演出になっている、ってところがある。ここにはふたつの点でズレが見られるのではないだろうか。一つは言及された小津映画と『アベノ橋魔法☆商店街』とのズレ、もっといえば笠智衆とヒロインのおじいちゃんとのズレ。そしてもう一つはストーリー上、小津映画的なシーンが挿入されることに対する違和感。ただ後者については妄想オチというか、様々な先行する作品に対する言及はストーリー上も説明がつくのではあるが(小学生が小津映画見ているかどうかはあやしいが)。今放送中のものでいえば、『さよなら絶望先生』などでは、これといったストーリーはないので後者のズレというのはあまり問題にならないだろうが、前者に関していえば、関内・マリア・太郎に「マ太郎」というあだ名がつけられることで藤子不二雄Aの魔太郎のシルエットが現れるというシーンがあるが、まさにこれはマ太郎と魔太郎のズレを示すことになる。同じ新房監督作品の『ぱにぽにだっしゅ!』にも同種の言及が多数見られると思う。

…なんか書いていてしょうもないこと言っているなとかいう感じになってきたが、言いたいことは先行する作品に対する言及はこういったズレを生むということだ。それでは『らき☆すた』ではどうか。僕がこの作品と『アベノ橋魔法☆商店街』を見比べて思ったのは、言及のあり方、正確にいえば言及の対象が違うのではないかということだ。もちろん上述したようなズレを引き起こす言及を行っているシーンもあるだろう。というかたくさんある。だがたとえばこなたの家に朝比奈みくるのフィギュアがあるというシーンがあるが、これが上述のようなズレを引き起こすだろうか。否、だと思う。なぜなら言及の対象は『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品における朝比奈みくるという登場人物ではなく、朝比奈みくるのフィギュアという商品だからだ。あるいは本屋でコンプティークを立ち読みしているシーンではコンプティークに『エル・カザド』の広告が載っているが、この場合も内容ではなく『エル・カザド』という商品が問題になっている(もちろんコンプティークという商品も)。陰陽師がタイムマシンに乗って机の引き出しからでてくることはありそうもないが、オタクの女の子の家にアニメキャラのフィギュアがあることはありそうなことだ。で、この両者を分かっているのが言及の対象、つまり作品の内容に言及するか、作品を商品と捉えて言及するかの違いだ。想像するに、受け手の側からしてみたら、前者の場合知識が問題になる。後者の場合はたぶん経験が問題となる、生態が問題となる、といってもいいかもしれない。『らき☆すた』が排他的であると感じるという感想がブログなどで多数見受けられたが、それはこのことと関係するのではないだろうか。

僕の貧しいアニメに関する知識では、このことは新しいことなのではないか、と思える。根拠、というか状況証拠はないこともない。先行する作品を商品として言及するためには、それらを商品として実際に扱っている人たちが何らかのかたちで作品に登場する必要がある。端的にいえばオタクを扱った作品である必要があるということだ。まあ必要っていってもほかにも可能性があるだろうからオタクを扱うのが必要条件だとかまし十分条件だとかはいえないと思うが、まあとりあえずオタクを扱えばアニメやマンガ作品を商品として登場させる機会も出てくるだろう。僕がすぐ思い浮かぶのは『げんしけん』と『ドージンワーク』ぐらいだ。前者についてはマンガしか読んでいない。後者はマンガ版は一巻のみ、アニメは一応全部見てる。両者に共通しているのは固有名はあんまり出していないということだ。後者については主人公はそういう世界に関して全くの素人だという設定なのでまあそんなものかなとも思う。前者については確かにところどころ(というか結構)実際の作品の台詞やら何やらがでてくるが、注目すべきは作品内で架空の作品を(たぶん緻密に)設定などから作り上げていったということだ。で、話題をその架空の作品に集中させる。ビジネス的にはたぶんそれは大きな効果をもたらしたと思うが(アニメ化までしたので)、結果的にそのことで実際の作品に言及する必要があまりなくなった。そういえば『妄想少女オタク系』も架空の作品を出していたような気がする。

これらの作品はあえて実在の他の作品を直接的に言及することを避けているような気がする。もしそうだとしたら、マンガや、とりわけアニメで直接的に言及しづらいのはなぜなのだろう。容易に思いつくのは、ターゲットを特定したくないということだろう。逆に言えばこの点も『らき☆すた』が排他的だという意見がでる理由の一つになるのかもしれない。あとは、スポンサーや著作権所有者に対する配慮の問題もあるのだろうか。僕にとって興味があるのはどちらかというとこちらの方だ。つまり、もし他の作品の直接的な言及について、多くの作品が、「しない」のではなく「できない」のであるなら、『らき☆すた』ができたのはなぜかということだ。このことはおそらく京都アニメーションという企業の経営戦略と関係するだろう。そして以前述べたようならき☆すた』と『涼宮ハルヒの憂鬱』の特殊な相互参照はこういった直接的な言及によって可能になったということができると思う。これは確かに作品内的な問題ではない。しかし作品を制作するための前提条件にかかわることであって、作品を語る上では欠かすことのできない視点だと思う。要はインフラだ。経済的、時間的問題やスポンサーの意向は多くの場合作品の制作を限定するものであるが、同時にある種の発想を可能にするものでもある。